記憶の器

 私たちの脳の限界を超える記憶の方法を考えたのははるか昔の人だったはずだ。記録する際に何らかのシンボルを使い、それをみれば過去の経験を再現できるようにした。最初のうちは例えば樹木に傷をつけるとか、石を積んでしるしにするとかそういうものであったはずだ。

 音声による言葉が生まれたことで、記憶の方法は進歩する。音声はその場限りで消え去るが、何度も唱えることで記憶に残すことができる。大昔の語り部はかなり長大な内容を記憶していたというが、それも何度も唱えることで記憶をリフレッシュしたからだろう。口承伝承の類はこの段階のものである。

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 その後、文字という抽象的な記録の道具ができたことで、飛躍的に過去の記録ができるようになった。歴史と呼ばれるものもその一つだ。文字に書き残されたものを史書といい、それ以前を先史時代などというのは文字を基準にしている。筆記するための道具の発達により、記憶の長期保存が可能になった。文字ができたことで私たちは過去のことを参考にして現在のふるまいをただすことが可能になった。歴史に学ぶことができるようになったのである。

 そして、いまはコンピュータの発達と普及によって人々の記憶の多くは小さな端末に残されるようになった。人間の容量をはるかに超え、さらに瞬時に検索可能なことから私たちの記憶は飛躍的に増えた。科学技術の発展もこれに支えられている。

 一方であまりにも人間の能力からかけ離れているために、自分の脳で記憶することをあきらめてしまった人を多数出している。昔は家族や友人の電話番号をさまざまな方法で覚えていたが、いまそれができる人は少ない。電話番号を覚える必要を感じないのだ。スマホで電話をかけるときは連絡先のアプリに記憶させ、あとはその人の名前をタップするだけなので電話番号というものを気にする必要がない。恥ずかしながら、私は自分の番号さえ忘れるときがある。

 記憶の器が人間サイズだった大昔は、その器の中でいかに記憶をこぼさないかが死活問題だった。食料調達場所や天敵の出現する箇所を記憶できなければ死に直結したからだ。その後、言葉が生まれ、さらに文字が生まれると記憶の量量は人間サイズよりも少し大きくなった。それが現代になってコンピュータの個人利用が始まると飛躍的に大きくなり、人間の尺度で考えれば無限といえるほど大きくなった。その利便性がかえって自分で考えることを怠ることにつながった。これが人類の記憶に関する歴史である。

 最近のニュースを読むと、この考えない積み重ねが認知症のような症状を若年層にもたらしているという。スマホなりパソコンをみればいい。検索すれば答えがあるという考え方が世界中に蔓延している。考えない人間はいつか環境に適応できなくなるのかもしれない。私も最近はすぐにパソコンにメモを取るようになっている。忘失を恐れず必死に覚えること、忘れないことはこれからも大切なスキルであることには変わりはないように思う。脳を退化させないようにしなければ。

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