考えさせる、失敗させる

 主体的な行動をとる訓練をさせるのが教員としての私の課題だとこのごろ痛感している。日本の教育は受動的な人間を育成するには長けているが、自ら発信する生徒を生み出していないとはよく言われることだ。一律に同じことをすることをよしとする教育方法では自分で考える力はつきにくい。

 ならば何でも生徒任せにすればよいのか。それも違うだろう。生徒同士で語らせてそこから成長させる効果はもちろんある。なにかいい発見があるかもしれないし、まったく何もないかもしれない。場合によっては低きに流れることもある。ただそれを傍観しているだけでは教員としての存在価値は小さなものになる。ただ座らせて、監督する。それならば教員でなくてもできる。私たちがやるべきことは生徒の思考を発動させることであり、それを促進する触媒となることだ。それにはいわゆるコーチング的な要素も必要になるだろうし、メンター的な役割もいるかもしれない。場面によって様々な役を演じ分ける役者にならなくてはならないと感じている。

 かつては尊師と仰がれればあとは弟子が勝手に自己研鑽してくれるような風土があった。しかし、現代のように多様化し、高度に情報化された時代では無条件に尊敬されるような存在にはなれない(少なくとも私は)。ならば、学習意欲を刺激するような様々な方策を繰り出していくしかない。

 生徒に主体意識を持たせるには自分で考えさせ、失敗してもいい風土を作り、できたことはどんなことでも評価することを続けていくのがいい。褒めるというだけではなく、場合によっては助言も必要だ。どちらにしても既定の枠内のなかに押し込めるのではなく、伸びていく方向に従って指導法を変えていくしかない。

 私がいつも思うのは自分が引退したあとのこの国、この地域、世界を託せる人物を作るという考えである。自分より劣った人物を育成しているのではない、自分をはるかに超えていく人材をたまたまこの時期に教えているのだと考えることにしている。そうした敬意が今の教育には欠けているように感じるからだ。

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