やはり役に立つ

 シンギュラリティはいつかという話題の中で、果たして今のような教育は必要なのかという議論は必ず出ます。そして誰もそれに答えられません。まだ、起きていないことを前提に議論はできないからです。

 英語を勉強してどうするんだ。英語は自動翻訳機がやってくれるからもう必要はないんだ。英単語を必死に覚えなくてもいいだろう。意味のない勉強はやめよう。そんな話が出てくることがあります。これが暴論だと思う人は多いでしょう。では、古典文学はどうでしょうか。例えば漢文の分野などに話を移すと旗色は変わります。今さら漢文になんてやってどうなる。返り点を習っても中国語はできない。そもそも論語や孟子は紀元前の思想であって現代に通用しない。ほとんどの中国人は読んだことさえないはずだ。だから、漢文は不要だ。これが正論だと考える人はきっと多いはずです。

 英語も漢文もその学習が不要だという人の根拠は、実生活で有益か否かの基準で話していることなります。そしてその際の利益とは表面的なものであって、私たちの思考の方法に基づいていません。私たちが物事を考える際には、考えたことをまず言語化し、それを組み合わせて論理を形成します。さらに複雑な文法に当てはめて初めて言葉になります。機械ができるのは最後の段階であり、自分の思考や感情を言葉にするという段階は機械にはどうしてもできません。思考や感情を形成するのは言葉の学習を繰り返した末にできます。国語はもちろん、様々な外国語学習によってそれは鍛えられていくのです。

 だから中等教育程度の学習はやはり必要です。必要でないという人はとにかく自分の意志は放棄して効率よく機械の勧める何かに従って生きようという方針でいくしかなくなります。つまり、自分も機械の一部になることを目指す人は無駄な学習はしない方がよい。私はそうはなりたくありません。

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