人のスペック?

 自己肯定感が低いのが日本の学生の特徴であるとは、昨今の世論調査の示す事実のようです。どうせ私はと考える人が多いのは商品同様に人材もコモディティ化しているかのような錯覚を与える社会になっているからかもしれません。

 コンピュータの性能を表すスペックという数値があります。CPUの演算能力やディスプレイの解像度など、パソコンを選ぶ時の基準となる数値です。最近、これを人間にも当てはまる表現をしばしば目にします。身体的なデータに加えて、就職先、年収、結婚歴などが数値化されてスペックと表現されているのです。ある種の企業にとってはこれが選抜の基準になるのかもしれませんが、実はこれも自己肯定感損失の大きな要因になっていると考えます。

 他人と比較する数値において特別に目立つ存在になることはかなり困難です。そして自分よりも数値が上の存在を知ることで得られるのは失望が大半とあれば、何もいいことはありません。私も含めて多くの人は凡庸であり、それゆえに社会が成り立っているといっても過言ではありません。

 問題なのは凡庸な数値を持つ私たちが等閑視されてしまうことです。実は個々人が別々の背景を持ち、積んだ経験も少しずつ違うのにも関わらず、あたかも同じような人、その他大勢のような扱いを受けてしまうのです。それでは自己肯定しようもなく、むしろ無力感に覆われるばかりです。

 私たちは個々人の個性を認められる環境を作らなくてはならないし、その意味で人材を生かさなくてはならない。ダメな人たちではなく、ダメだと思われている人たちの本当の輝きを見つけなくてはならない。自信を失った人たちに役割を与えなくてはならないのです。

 あまりにも単純な人間の扱いが現在の危機を招いているというのが私の考えです。私たちは自らの持てるものをもっと活用することを考えなくてはならない。それが生き残るための最低条件です。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください