飛び立ちかねつ

 人間の悲劇というものは己の姿を俯瞰して見られないことにあると最近つくづく思うのです。

 私たちは自分の経験と知識の中で生きています。それは誰でも同じことです。自分以外の誰かになることはできないし、どんなに想像の翼を広げても自分の見た風景以外のものを実感として捕らえることはできません。だから、自分の経験こそが世界のすべてであるかのようにふるまい、それが間違いと分かってもどうしようもないのです。

 哲学者は俯瞰することを常としています。人間は…という大ぶろしきを敷くことが哲学では大切なのです。でも、私たちは結局自分の見たものしか見られないし、聞いたことしか聞けない。それ以外のものを知覚することすらできないのです。メタな認知をすることが大切だと知識人はいいますが、そもそもそれができるならば苦労はない。私たちは自分の経験のバイアスの中で世界をとらえるしかないのです。

 だから、私たちの考え方は根本的に独りよがりで利己的です。それを自覚することは大切だとつくづく思うのです。ネット社会は検索という便利な手段を提供してくれました。その陰で情報の一つ一つは結局、個人の経験が生み出した見解であるということが忘れ去られようとしているのです。

 もう一度根本に立ち戻るならば、自分の考えはあくまでも自分の正義の産物であり、それは必ずしも他の人に当てはまるとは限らないのであるということです。鳥ではない私たちは自分の姿を見下ろすことはできません。それが様々な悲劇をもたらしていると考えたのです。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください