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メディアリテラシー

 改めてメディアリテラシーの重要性が問われる事態になっている。帰国しない議員を持つ少数政党はついに党是と関係する名前を捨て、アイドルグループをもじった名前に変えた。あらゆる方面に不親切であり、不誠実だ。

 この政党は分かりやすい目的を提示して集票しながら、結局はそれが目的ではなかったということだ。刹那的な話題で注目を集めるだけですべてが自らの利益のための活動だ。国会議員なのに国民には関心がなく、政党なのに政策より立場保全を優先する。どう見てもおかしい。

 この怪しさは大抵の国民ならば気づくはずなのに、なぜ議席を与えてしまうのだろう。それは既成政党への不満というだけでは済まない。この政党は公共放送制度への批判から始まり、それを女性の政治参加にすり替えつつある。この方法はいわゆる独裁政権の成立過程にも似ている。

 大切なのは相手を見抜く洞察力なのだろう。政治家となるとそれが全体の利益に関わる。芸能界のマイナータレントの動向とはそこが異なる。彼らが批判した放送というメディアや、逆に利用したソーシャルメディアというものの扱い方をもう一度考える必要がある。表現は自由だが、それを誠実なものか売名なのかは各自が判断しなくてはならないのだから。

鏡として

 コンピューターを使い始めた頃気づいたことがあった。私たちがものを考えるときにどのような手順で考えているのか、何を取り上げ、何を後回しにしているのか。それをコンピューターのプログラムはなぞっているのではないかと。

 プログラミングがほとんどできない私の印象に過ぎないが、機械にでものを行うことはまずは人間の思考法をもとにしており、そのために逆に人間のものの考え方を明らかにすることがあるということだ。私たちが無意識のうちに行っていることや考えていることは、実はある手順を踏んでいる、それはこういうことだったという気づきである。

 ならば、コンピューターを操作することは人間の言動を考える鏡として使えるかもしれない。私は国語の授業の中で、それこそ人間の普遍的な思考方法は法則化することも可能であるということを体感している。そういう言説は昔からたくさんある。文章の構成をパターンとして捉えることを教えることができれば、読解が苦手な生徒の助けになる。

 大切なのはそういう機械的な段階を超えたより深い内容であり、それらを比較分析する深層に触れる思考だ、それに辿り着く前に基本的な読解ができないのであれば大きな損失ということになる。その意味で思考の基本をある程度法則的に教えるのは意味がある。それに気づいたのはコンピューターの操作を通してだったのだ。

 パソコンばかりさわって本を読まなくなったのは事実であるが、機械から学ぶこともある。全ては繋がっている。

気が散る仕掛け

 読売新聞でデジタル書籍に関する特集記事が連載されている。新聞という紙面のメディアからの発言であることを割り引いても、現状のデジタルテキストは学習効率を決して高めないものと読み取ることができる。

 情報の活用や拡張性については電子書籍の方が圧倒的に勝る。モノでないことから物質的な拘束から解放されるのが何よりもよい。ただ、メールもゲームも何でもできるという多機能性は読書を阻害する。真面目な読者であっても、参考のリンクをたどるうちに本論の論理が消えてしまう可能性がある。

 私は電子書籍リーダーを使うことで誘惑から決別しようとしている。一つのソースに集中できる環境を自ら作り出すしかない。金はかかるが読むことしかできない端末を教育現場で普及させるのはいかがだろうか。

ネット記事の基本型

 文章読解力の低下が懸念されています。PISAの試験は子どもに対して行われましたが大人も例外ではありません。低下した読みの力に対応するかのようにネットにあがる記事も劣化しているように感じます。

 コラム風の文章には明らかに基本型ともいうべきものがあります。まずセンセーショナルなタイトルは字数制限で途中で切れてもいいように肝心なことは後半に書きます。切れたところに何があるのか関心を惹きます。

 文章の前半は具体例です。多くの場合、筆者が目にした事例やデータを点描するもので、よく読めばいくらでも反例が上がりそうな緩い事例紹介です。これがいくつもあがり、文章の大半を占めることもあります。

 結末の少し前に識者の意見などが紹介されます。インタビューの体裁で済ませてしまうこともあります。そして「いかがだったでしょうか」などで括り、読者に注意を促すといったものです。

 こうした基本形に沿った記事はあまり集中して読まないネット読者を意識して書かれているのでしょう。型はあるので一見文章として成立しているかのように思えます。気になるのは多くの場合、内実が少なく、最後まで読んでも印象に残るものが少ないのです。結局何が言いたいのだろうとか、それならもう少し短く述べられるのではないかといいた感想を持ってしまうのです。

 ソーシャルメディアの短い文しか読まないから読解力が落ちるという人がいますが、字数制限がない文章の世界にも読解力不足の影響が出てきているような気がするのです。文章表現力と読解力は表裏のものですので、書き手側の問題も考えていいのではないでしょうか。