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インプット

 ある時期は情報を集めるばかりでものが書けない時期があった。本もかなりのスピードで読んだ。そのうちのどれだけ身についたのかは別の話だがとにかく入力過多になった時期がある。

 ところが最近はアウトプットばかりで入力ができていない。ここで考え方を変えていきたい。少しデタラメを書くのはやめよう。無理に絞り出さずにまずは先人の教えに従おう。知らない本をあえて読んでみようと思う。中断している読書ブログを再開することにする。

 歳を取ると本を読むのも大変だ。小さな字は見えないし、気力が尽きやすい。若い人には言いたい。後で読めばいいなどと思っていたら永遠に読めない。今日少しでも読むのがいい。

読書促進

 最近の子どもは本を読まないと嘆く人は多い。でも、そういう大人も読書量が少ない。最後に読み終わった本は何ですかと問われても即答できる人は少ない。

 国語の教員としてはなんとか読書量を増やしてほしいと考える。読書量を増やす策はあるかとよく問われるが、いつも答えているのは自分が本を読んでいる姿を見せるということだ。恐らくそれしかない。

 可能ならばその内容を子どもに話したり、子どもの読んでいる本を自分でも読んでみて感想を語り合うとなおいい。自分は読まないくせに子どもに要求しても効果は限定的だ。読書する楽しみを感じさせることが最善の読書促進の方法だ。

読むのを見せる

その本おもしろい?

 読書をしない子どもたちが増えている。読解力がとんでもないことになっている。そういった話は世上に溢れている。そして、現実にもそういう人に出会うことが多い。何とかならないかという話をされることもある。

 国語のテストである程度の点数を取るための技術ならばある。しかし、それは生きるための読書力かと言えばあやしい。難関大合格者の中に国語は要領ですよとコメントするのを読んだことがある人も多いはずだ。そういう人の大半は読書を作業と捉え、学び取る力に欠けているように感じられる。筆者に対する敬意も、批判する精神も薄弱だ。

 普段から読書をし、他者の意見を受容し、ときに吟味して批判する人になるためには、やはり子どものころの読書習慣が影響する。子どもに本を読ませるにはどうすればいいのだろう。これも長年の課題の一つだ。

 もちろん課題図書として課すというのは一つの手だろう。しかし、自主的に本に親しむ環境を大人が提供することの方がより大切である。提案したいのはまず大人が読書する姿を見せることだろう。率先垂範はこの話題にも当てはまる。できれば読んだ本の話を聞かせるのがいいが、ただ読んでいる姿を見せることだけでも効果がある。

 電車に乗るとほとんどの大人はスマホを見つめ、そのうちの大半はゲームをしている。次にソーシャルメディアを読む人がいてほぼそれで終わりだ。スマホで読書もできるが、できれば紙面の本で読むのがいい。子どもはそれを見ている。

 

共通体験の担保

 世代による共通の体験というべきものを探すことが難しくなっている。こんなことを見た聞いたやったという共通の経験は少ない。その意味ではここ数年、マスク生活になったことは稀有なことかも知れない。

同じ本を読む経験も必要だ

 もちろんこれはある意味喜ばしいことでもある。生活が多様化し、様々な価値観が並列する時代にあるといえるからだ。選択肢が多数あるからこそ、共通の経験を持つ者の数が減るわけだ。

 読書経験についても同様のことが言える。同じ本を読む経験が減るのは、読書以外の楽しみがあるからだということだ。

 ただ、ある程度は共通の教養がなければ様々な困難が発生する。同じ思考の根本にある読書経験がバラバラだと共感したり協調したりすることが難しくなってしまう。あの話のように、という比喩は使えなくなる。それは結構困ることだ。

 学校の国語の授業で全員に同じ話を読ませるのはその意味では共通体験の担保をしているのだとも言える。それがどんなに退屈な経験であっても、それに触れたと言う経験は一定の意味を持つ。

 よく、無理やり同じ話を皆に読ませても無意味だとか、関心のわかない読書をさせるべきではないという人がいる。一理あるが別の見方をすれば、それなりの役割を果たしていることに気づくはずである。

読み直し

 学生時代読んでいた古典作品をもう一度読んでみたいと思うようになった。私の場合は古典といっても文学なのでまさに趣味的な世界である。

 最も興味があるのが江戸時代のあたりの人物伝であり、いわゆる奇人伝と呼ばれるものだ。奇人と言うと精神異常者のように考えられるが、それだけではない。強烈な個性の持ち主ということになる。何か一つに秀でたものは他の方面では異常者のように見えることもある。それを描いたのが奇人伝のジャンルである。説話がさらに進化したものであるが、関心が人物そのものに向かっているところが中世のものとは異なる。

 もちろん昔の変わった人の話を読んでも何の益もないかもしれないが、日常の価値観を逸脱して自由になるためにどのような方法があるのかを考えるきっかけとしてはいいのではいだろうか。江戸の文学を読むための十分な知識は私にはないのでかなり恣意的な読みなるがそれもいいのではないかと割り切ることにした。

軽薄な知の活動

 本を処分するときに様々な痛みを感じることはなかなか理解されなくなっている気がする。たまにしか読まないものに容積を譲り渡すのは愚かだとさえいう人もいる。そして反論がどんどんしにくくなる。

 書籍もデータベース化されると物体としての本の価値は消滅するかのように思える。しかし本当にそうだろうか。書棚の前に立ち背表紙のタイトルに関心を惹かれることには意味がないのだろうか。いつか読まれることを待っている本に私は大きな意義を感じている。

 おかしいのだろうか。

本を

 読書の習慣を身につけるのは現状ではかなり難しい。読書よりも楽しいことはいくらでもある。その断片はネットで検索できるし、要約したり、映像化したものまで溢れている。読解力を総動員して理解せねばならない読書はハードルが高い行為のようだ。

 それでもやはり読書の必要性はなくならない。むしろ、細かな知識や全体の文脈を知るためには欠かせない。私は教員として読書を推進する立場にある。押しつけではなく、自然に本を開く行動を促す工夫をしていきたいと考えている。

書店の意味

 近隣の書店が閉店してしまった。駅ビルの中にあって便利であったのに残念でならない。電子書籍を利用することも多いが、大切な本はやはり冊子で購入したい。それがどんどん難しくなるようである。

 小規模の書店は近隣からほぼ消滅してしまった。いくつも支店をもつ中規模以上の本屋が残り、それも次第に数を減らしつつある。読書をする人が減ったのに加えて、ネット注文ができたり、電子書籍が普及したりで、この業界には逆風が吹き荒れている。

 自分の本を所有することの意味はデジタル化社会でも変わらないといわれる。知識の吸収という面において紙面メディアは優位にあると言うことはデジタル教科書問題でしばしば議論されている。

 その意味で書店が消えていくことは残念だ。損失というしかない。

成功は失敗のもと

 今読んでいる野口悠紀雄『リープフロッグ』は経済的な弱者がその条件ゆえに一気に先頭に立っていくという逆転の経済仮説を述べたもので興味深い。強者と弱者の格差が年々開いていくと考えるのが一般的であるが、実は条件さえそろえば一気に状況が変わるというのだ。

 氏は中国を例えにしてこの現象を説明する。古代中国は様々な発明をし、強大な王国を作り上げたものの、その体制を保全するために保守化し、欧米や後進の日本にリープフロッグされたが、いま欧米日本が既得権益を維持するために新技術を開発する力を持ちながらその先に踏み出せないうちに、中国が再逆転したというものだ。これはある意味積極的な発展観であり興味深い。逆転されたら再逆転しようというモチベーションにもつながるものだ。

 ただ、気になったのは現状に満足しているとそれが滅びの原因となっていくということだ。つねに次の段階を考察してあらゆる可能性を考えていかなくてはならないということになる。このレベルにも当てはまることだろう。

感情的な描写を論理的に考える

 小説の読解の方法の基本は、登場人物の心理の変化を正確にたどることである。これができれば小説の世界を深く理解できる。現実の人間の世界はかなり複雑な構造をとる。人間の心理というのは数式に表せるほど単純ではない。いろいろなことを同時に考えており、局面においてその感情の一部分が顔を出してくる。だから人間というのは実に複雑である。

 小説の世界は作者によって一定の世界観を付与されており、その登場人物も設定上の制約の中で活動する。かわいい女の子はいつまでたっても無邪気なままだし、おんぼろの世界の中で何とか自己実現をしようとしている。現実とは似て非なる世界の中である。その造形の中で私たちは人間について考えることになる。

 小説は筆者の仕込んだ構図の中に一度没入し、さらにそこから浮き上がって俯瞰することで深い味わいを受け取ることができる。私が教室で教えたいのはその点であり、いつもそれを目指しては失敗している。