タグ: 認知

ミニチュア

 子どもの頃、鉄道模型や帆船模型などに興味が惹かれた。大きなものを俯瞰することができることに素朴な喜びを覚えた。いまでも偶然それらに出会うと懐かしい誘惑にかられる。

 最近、電車の車窓から見える風景がミニチュアのように感じることがある。紛れもない現実の風景をそう感じるのはなぜなのか。

 一つの考えとして私の脳の状態という要因がある。現実をひとかたまりに分節して、それを単位に捉えるあまりに現実をありのままに受け入れられないようになっているのではないだろうか。

 これは加齢も関係があるかもしれない。過去の経験に頼り過ぎるとものを模型のように感じるのか。いろいろな他の可能性も考えつつ自分の認知行動の変化を説明しようとしている。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。

椿の実

 通勤途中の道端に椿の実がなっているのを見つけた。小さな林檎のような色をしている。ただもっと球形の可愛らしいのものであった。

 中にある種子からは椿油が取れるらしい。子どものころ伊豆大島に行った。土産物屋で母が買ったのは椿油だったことからその存在を知るようになった。もっとも子どもたちにとっては椿の種を何かでコーティングして作ったキーホルダーの方が気になったものだった。

 椿など庭木としてはありきたりのもので、花はいつも注目してきた。それなのに実の存在を知り、まじまじと見入ったのは初めてだ。見逃していることのなんと多いことか。恐らく他にも目の前にありながら見えていないものはたくさんあるのだろう。