授業で短歌を教えることがある。古典和歌ではなく現代短歌をおしえるときには文学性はもちろんだが、もっと違うものを引き出すことを考えている。
国語の授業は最近ますます情報処理の方面に近づいている。書かれていることを正確に読み取り、それを短くまとめるという能力だ。実用的な文章においてこれは大切であり、必要不可欠な要素であることに相違ない。ただ、これはいわば機械でもできることだ。ちなみにChatGPTに短歌を中高生が学ぶ意義を尋ねたところ、
日本語の美しさを学ぶことができる:短歌は、五・七・五・七・七という音数の制限の中で、豊かな表現力を持った日本語の美しさを表現することができます。短歌を通じて、日本語の響きや表現力に触れることができるでしょう。
感性や思考力を養うことができる:短歌は、短い詩であるため、それぞれの言葉が持つ意味や表現力が重要となります。そのため、短歌を書くことで、言葉をより正確に選ぶ感性や、自分の思考を深める力を養うことができるでしょう。
文化や伝統を学ぶことができる:短歌は、日本の伝統的な詩形であり、古くから多くの人々に愛されてきました。短歌を学ぶことで、日本の文化や伝統を理解することができるでしょう。
創造力を発揮することができる:短歌は、自分の感性や思考力を活かして、自由に詩を書くことができるため、創造力を発揮することができます。
OpenAI
以上のような実に模範的な回答が得られる。しかし、実際に短歌を作ってほしいと頼んでみると即座に「木漏れ日 きらめく枝先に 小鳥の 歌声響く 春の息吹」という作を披露してくれた。残念ながら短歌ではなかった。定型が守られていないのは存外として、これでは詩としての感動がない。春に小鳥というよくある取り合わせを並べたものに過ぎないのだ。
なぜ(いまのところ)機械と人間との創作に差があるのかと考えれば、やはり意味の理解の差にあるのかもしれない。私たちは言葉の背景にある意味を考え、その言葉が取り合わされたときに生じる意味も考える。「春」に「小鳥」が「枝先」で「歌」うのは統計的に非常に多いものであり、それを短歌にしても感動は生まれない。でも例えば先ほどの短歌を、
木漏れ日のきらめく枝に小鳥らの歌声響くことのない春
とすると、趣が変わる。なぜ春なのに小鳥は鳴かないのか。疑問とか不安とか正体は分からないが作者の一度限りの感情が読み取れてくる。
おそらく短歌の教育で教えたいのはこういうことなのだろうと考えている。詩という形式が何をもたらすのか。それは論理的な読解だけでは表現できない、情動なり空気なりをぎりぎりの段階で言葉としてつかみ取る方法なのだということを気づかせたいと思う。