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若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

交響楽

 シンフォニーをホールで聴く贅沢さは何よりも素晴らしい。指揮者が最初の音を指示するまでの緊張感、重なり合う楽器が織りなすハーモニー、底から浮かび上がる様々な感情、そのどれもが尊い。

 もちろん、高級な音響機器を使えばかなり現実に近い音楽再生ができるなだろう。ただ、音楽家と観客たちが作り出す独特の空間は再現し得ない。

 時々は音楽を直接聞きに行かなくてはならないと強く思うのである。

フレーム

 美しい絵画をみると感動するが、その中には額縁の存在もあることをつい忘れてしまう。額縁は作品を引き立てる大切な役目を果たしている。

 昔の絵画の中には絵の中に縁取りのような模様が描かれているものもある。それは中央の絵画とは付かず離れずの関係にあり、テーマをまさに側面から支えている。宗教画なら天使や悪魔、妖怪などが図案化されている。絵画世界を俯瞰しているかのような存在だ。鑑賞者はさらにその上から見ていることになるから、重層化した世界を見ているような感覚になる。

 普通の絵画でもフレームは創作と現実の境界として機能する。囲まれた世界は例え偽りであっても受容することができる。創作であることを示す目印と言える。

 パーチャルリアリティにしても、拡張現実にしても今のところはコンピューターの画面というフレームに収まっているから目印がある。しかし、恐らく近い将来、画面を飛び出した非現実が現れるだろう。そうなると私たちは自分で目に見えないフレームを作り出さなくてはなるまい。それを忘れると思わぬ悲劇が始まる可能性がある。

画像生成

 人工知能を活用した自動画像生成ツールがある。静止画のレベルならば写真と見紛うほどの質の画像が瞬く間に完成する。恐らく既存の人気画像の要素を取り込んでいるのだから、それを合成した生成画像が満足感の高いものになるのは必然なのかもしれない。

 言葉に関心があるものとしてこのシステムには非常に興味深い要素がある。それは作画の指示を言葉によって行うことである。例えば、若い、男、爽やか、カジュアルな服といったようにフレーズを並べる。またそうであってほしくない要素も指定する。例えば不潔、悪党、入墨などだ。これらの要素を除いて作画するのだ。

 絵画が言語によって指定されるのは人間の認知行動の本質に触れているのかもしれない。実際の絵画は画家の長い時間をかけての修練が不可欠だ。だが、何を描こうかと思う出発点は言葉なのかも知れない。

 ならば優れた絵を描こうとするならば操れる言葉の種類が豊富である必要がある、これが少ないと類型的で単純な絵しか生まれない。人間の認知行動や表現行動を可視化したものと思われる。

 いい絵を描けるように、つまり多彩な表現や行動ができるように使える語彙を増やすことが大切だ。これは生徒に対する分かりやすいメッセージになる。

話の展開

 あまりに忙しい毎日に慣れすぎてしまっているのか、現代人はゆったりとした展開の話をつまらないと感じる人が増えているように思う。

 韓流や華流ドラマを見始めた頃には筋の飛躍や人物設定の荒さについていけなかった。しかし、これに慣れると今度は日本や欧州の一部の映画などに見られる心理描写を丹念に行うストーリーがまどろっこしいと感じることがある。要するに、とまとめたくなってしまう。これは芸術の鑑賞としては残念なことなのかもしれない。

 明快なストーリーは娯楽作品ならばいい。でも、作品を通して人間とは何かを考えるにはやはりそれなりの順序と手順がいる。それを無視すると世界はかなり単調なものとなる。

 話の展開をじっくりと楽しむには受け手側の解釈力も要求される。そういう作品は理解されない可能性もあるので作られなくなっていくのだろう。でもかつての漫画の世界のような明快さばかりで奥深さにかける作品ばかりがもてはやされる現象はあまりいいものとは思えない。

家でアート

 グーグルのサービスの中でもっともいいと思うのはアート・アンド・カルチャーのサービスだ。スマホのアプリにはAR(拡張現実)で美術作品がカメラのファインダーにほぼ実物大で現れるというサービスがある。これがなかなか面白い。自分の部屋が展示室になるのだ。これは面白いのでお勧めしたい。

悲愴ソナタ

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番悲愴を最近よく聞き直している。第2楽章の甘美なメロディは特に有名だ。カンタービレの指示があるように演奏者の個性が出やすくそれも興味深い。

 音楽史的には激動の時代を生きたベートーヴェンの精神的な側面が反映されているという。悲愴というタイトルだが、なぜか力を感じるところもある。悲嘆に打ちひしがれるような状況の中にあってなんとか立ち直ろうとする人間の強さも表現されている。

 最近この音楽が心にしみるようになったのはやはり、周囲の状況があまりにも難しく、漠然とした不安が横溢しているからだろう。逆風をまともに受けながらそれでも前に進む姿をこの楽曲に幻想しようとする自分がいる。

手の演技

 演劇に関しては素人だが、演技について時々とても気になることがある。そのうち手の演技について少々記す。

 演劇では所作によって感情の表現をすることが多い。精神を体現する手段だ。人が何を考え感じているのかは外側からは分からない。でも表情や身振り手振りでおおよそは察することができる。目が潤んでいるとか、小刻みに震えているとかすればそれだけでその人物が何らかの強い感情にとらわれているということになる。

 しかし、こうした細かな身体表現は遠くの客席からは分からない。そこでデフォルメが行われることになる。原則的に無言劇であるバレーでは感情表情がある程度定型化している。あの動きはどの感情を表すのかが決まっている。能や歌舞伎などの伝統的演劇にも所作の型がある。中には非現実的な動きもあるが、型だと思えば受け入れられる。

 現代劇やドラマでも型はある。照明やテレビ中継の技術の進歩により、現代の俳優は細かい演技が可能になった。流す涙の筋までカメラが追いかけてくれる。それでも型が必要なのは、分かりやすい表現が求められるからだ。

 身体表現の中でも印象的で理解しやすいのが手の演技だ。清岡卓行氏の文章ではないが、手には無限の表現の可能性がある。それをどう活用するのかが役者の技能だ。若い俳優はそれが未開拓であり、ベテランには巧みな人が多い。

ベルアップ

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 マーラーの交響曲を聴きにいって驚いたことがある。クラリネット吹きがときどき楽器をほぼ水平にまで上げて吹くのだ。リード楽器の吹き方としてはずいぶん不自然だ。トランペットなら当たり前だが、クラリネットがそんな恰好をするとびっくりしてしまう。

 調べてみるとベルアップという奏法らしい。そしてマーラーはこの吹き方を譜面で指定しているのだという。繊細な音を出すクラリネットがまるでラッパのように吹かれる。オケの演奏でこれを見るとかなり印象的な光景だ。演奏家もかなり無理をしていることが伝わってくる。

 音を遠くに飛ばすためというのはあまり説得力がないようだ。楽器の先をどこに向けようと音の伝わりは変わらない。違うのはやはり見た目の印象だ。聴衆に視覚的なインパクトを与えるというのが第一の効果なのだろう。その意味で私のようなものが現れたことはすでに成功しているともいえるのかもしれない。

息づかい

 オーケストラの演奏を見る楽しみの一つに演奏者の息づかいを感じることがある。確かに演奏家が眼前で楽器を演奏しているという実感は、譜面に書いていないことからも感じることができる。

 チューニングを終えた楽団員が指揮者の登場を待つときの緊張した息づかい。指揮者がタクトをふる直前に吸い込む息、音になる管楽器演奏者の息、実際には聞こえないが弦楽器や打楽器奏者のブレスも感じられる。これがライブ演奏の醍醐味だろう。

 コロナ騒ぎの中で様々なものがリモート化した。音楽はもともと録音という文化がある。しかし、何にしても直に演奏を聞く楽しみはなくなるものではない。