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若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

生活の中の美

 考古学資料のなかに魅力的な芸術を感じることがある。恐らく作られたときは獲物を狩るか、神に祈るかといった実用的な目的を持っていたはずのものだ。それが例えば展示ケースに並べられると美術品に見えてくる。

 今わたしたちが何気なく使って、意識することなく捨てているのものの中にもそうした美は隠されているに違いない。あまりに日常的だと気がつかなくなる。だからものを粗末に使うようになっていく。

 生活の中に美を見つけるにはときにいつもと違うやり方をするのがいいのかもしれない。見方を変えることによって日々の積み重ねの中に消えてしまった美しさを発見できるはずだ。そういう余裕だけは持っていたい。

日常の美

 日常に隠れる芸術がある。大量生産された品物であっても、それが特別のもののように見えることがある。ある程度年季の入ったものは特にそうだ。

 思うにものは使ううちに周りの生活を身にまとうのだろう。その衣装が尊いもののとき、ものは輝きを増すのに違いない。

 日常の中にも確かに美は存在する。

田園風景

 田園の風景を描く作品には魅力がある。ただ、それが画家によって選ばれた空間であることには注意するべきだろう。絵画は偶然の産物ではない。写真だってそれが芸術として撮影されたとき、映像の選択はなされている。

 仮に私が画才を身につけ、田園風景を描くとしたなら何を対象とするだろうか。そびえ立つ高山や、小川のせせらぎ、田中の道を歩く人々などいろいろ思い浮かぶ。ただ、そのどれもがすでにどこかで見たことがある。絵になる風景というものは確かにあり、それ以外を描くことは難しい。

 コンクリートとアスファルトに囲まれた毎日を過ごしている私にとっては田園は憧れの場所だ。だが、もし生まれたときからその地に暮らし、かつ都会の喧騒を知らずに育ったとしたらここまでの感情を抱くだろうか。田園風景が描かれる心的要因はいろいろありそうだ。

抽象画

 抽象的な絵画は苦手だった。単なる色の羅列のように見える絵はよく分からないし、題名をみても無題とあったりするとお手上げだ。笑ってしまったり、時にはイライラすることもあった。

 ところが先日、件の絵画に対したとき不思議な思いになった。脳の何かに作用したのかめまいのようなものを感じたのだ。そこにいろいろな幻影が浮かんだものもある。

 抽象的絵画の中には意図的に描かれたものが多いようだが、中には画家が実際にそのように見えたものを具現化したものもあるということだ。ならばこれは脳の深い層にあるものの見え方と関係を持っているのかもしれない。そう思うからそう見えるだけかもしれないが。

 美術館に行くことが脳の深部に触れることに繋がることは以前から気づいていたが、それを痛感するようになっている。

絵を読む

 絵画に込められた意味を考えることは大切であり、また危険でもあると考えている。楽しみであるが、それを壊すことにも繋がる。

 絵画にはそれを描いた人の、あるいは時代の影響が色濃く現れるという。いわゆる美術評論家の語る解説は魅力的だ。いくつかの評論集を読んで知らなかったことを知り、絵をみる楽しみが増えた。

 ただ、生半可な態度でこの知識を使うと絵が見えなくなってしまう。知識を前提に絵を見ることで生の感動や疑問を持つことが阻害される。決まった角度からしか作品が見えなくなってしまう可能性がある。

 絵を楽しむための知識と、楽しめなくする鑑賞態度のバランスが大切であると痛感する。

木を描く

 樹木を描くことに興味を持った。私の興味は突然現れるのでそれがなぜなのかは説明が難しい。木を描くときときに成長のイメージを考えながら描いていくということにちょっとした楽しみを感じたのだ。

 まず地面から芽吹いたものがやがて幹になり、そこから枝が分かれていく。さらに小枝に分岐し、そのうえでもさらなる分岐がある。それぞれの枝から芽吹きがあり、やがて葉が茂る。それが重なれば重なりが生まれ、その後それが木陰をなすことになる。

 その過程を鉛筆で描いているのである。もちろん正確な過程は再現できないが頭の中で考えることで長い時間を幻想することができる。決して人様にお見せできるものではないが、心を落ち着ける効果はある。

桃山時代の意味

 戦国時代末期と言われる桃山時代が文化的には豊潤な期間であったことを再認識した。政治史と文化史は連動しながらも別物だ。

 東京国立博物館で開催中の桃山時代の美術展を鑑賞して、いろいろ気づいたことがあった。金箔をふんだんに使った絢爛豪華な屏風絵と極めて簡素な水墨画が同じ時代に発展していたことはもっとも象徴的な現象だ。螺鈿細工の緻密さと大胆な造形の茶器の対比も面白い。およそ実用的とは言い難い武将の甲冑の装飾もこの時代の特徴である。

 おそらく戦乱に明け暮れていた時代は住みにくかったに違いない。正気でいるのも大変なことだと思うが、その一方で独自の文化が展開していた。その裏にあったのは狂気なのか。何が造形に駆り立てたのかは大いに気になっている。

国王の肖像

 上野の森美術館で開催中の美術展を観てきた。英国の歴代の国王の肖像画や写真を集めたものであった。権力者の画像は普通の絵画とは違うと実感した。

 英国に限らず権力者が必ずしも聖人とは限らない。むしろ庶民より拘束度が低いために醜態も残りやすい。そして公式記録としてつまり歴史として刻まれることになる。

 写真がなかった時代には国王の肖像画は様々な目的を持っていた。写実的であればいい訳ではなく、むしろ弱点を隠蔽し、ときにそれを補強する必要があった。時代の価値観に合わない部分は描かず、理想的な人物にしなければならなかったのだろう。それを自覚した君主は日常生活と公務の顔を変えていたかもしれない。肖像画のみならず、本人の生活それ自体が二重化、多重化していたのだろう。

 エリザベス1世の背景に暗く描かれるスペイン無敵艦隊の背景を観たとき、明るく笑うダイアナ妃の写真を観たときも画像というものの役割を感じざるを得なかった。

その人にしか見えないもの

 その人にしか見えないものがあることを私たちはなかなか気がつきません。何かのきっかけでそれが分かったときに深い感動を覚えることがあります。

 例えば絵画や写真を見ることはそのきっかけになります。同じ場所を見ても見えているものがまったく違うということを画家の創り出す作品は端的に教えてくれます。色合いや大きさ、中心にあるものなど、こういう風に見ていたのかと感じさせられます。写真は客観的な現実の切り取りのような体を装いながら、実はカメラマンの視点が強く反映されています。どの瞬間を現像するかの選択は撮影者の創意が形になったものなのです。さらに加工が加わればより複雑なオリジナリティの表現になります。

 対象がどう見えているのかを確かめることを一つの目的とすれば、芸術鑑賞の楽しみが増えます。そして、芸術作品に関わらずすべての現象が同様にいろいろな方法で捉えられているということを意識しておかなくてはならないのでしょう。