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東急100周年

 東急グループが100周年を迎えた。沿線に住む者として、公共交通機関や流通の提供に感謝したい。子どもの頃と学生時代、そして現在と中断期間はいくつかあるが長い間お世話になっている。

 子どもの頃も今も田園都市線の沿線に住んでいる。いまは田園を感じさせる風景は限られているが、かつては雑木林や田畑が車窓からいくつもみえた。そこに緑色の先頭が丸みを帯びた電車が時折り走った。ステンレスの車両に置き換わりつつあったが緑が来るとなぜか嬉しかった。今より狭くうるさい。そして機械油の匂いがしたように思う。この旧型車両は急速に消えてしまった。いまは博物館にしかない。

 子どもの頃はストライキがよくあった。恐らく中学生か高校生のお兄さんが線路に入って遊んでいるのをみたことがある。ストライキとは何か何のためにするのかをほとんど理解していなかったが、テレビニュースが大騒ぎするのとお兄さんたちの謎の行動が脳裏に焼き付いている。

 しばらく東京を離れて、また戻って来たとき、中学生と高校生では東急電車との縁が切れた。ただプラネタリウムのあった文化会館やその屋上の遊戯施設、小さなステージで河合奈保子のキャンペーンに参加したこと。東横店での買い物などグループのお世話になることがあった。

 大学生になって東横線で通学するようになり、その後就職して関東を離れると再び東急との縁がなくなり、十数年ぶりに帰った生活圏が東急沿線だった。何かと縁があったということだ。

 関東の私鉄は私たちの生活に欠かせない。文字通りのライフラインである。これからも安全な運行を続けていただきたい。

合格した皆さんへ

 大学に合格した皆さんに申し上げたい。その合格は決して自分の能力だけで勝ち取ったものではない。学習が出来る環境を用意してくれた家族や周囲の人々に感謝すべきなのだ。

 嫌な言い方をすれば貴方よりずっと有能で有望なひとは必ずいるはずだ。彼らの中には学習しようにもそのような環境に恵まれなかったひとが少なからずいる。もし彼らが条件を勝ち取っていたら、貴方よりもっと素晴らしい何かを成し遂げる人が登場したかもしれないのだ。そのことを忘れないでほしい。

 貴方がたの中には将来的エリートとしての人生を歩む人もいるかもしれない。大学でさらに学び何かをすればの話だが。エリートになった時に考えて欲しい。限られた人しかエリートに慣れない国家と、才能ある人がチャンスを生かせる国家のどちらがいいだろうか。自分さえ幸せならばそれで構わないと考える特権階級ばかりいる状態と、自らも切磋琢磨しなければ後生をおそれることになる社会のどちらが健全なのか。

 自分だけよければいいと考えるエリートがやがて社会を壊す。そんな予感がする。すでに多くの兆候がある。決して間違ってはならない。大学に合格した人ならば分かるだろう。多くの栄華を極めた王族や国家、企業の衰退の原因を。

脱マスク間近

 13日からマスク着用は個人の判断となる。多くの企業ではこの方針に従うと発表しているが、接客を中心とするサービス業では従業員のマスク着用を続けると公表している。

 私の場合はコロナウイルス以上に花粉の飛散が問題なのでしばらくマスク生活は続けることになる。恐らく多くの方々はマスク生活を止めることになるだろう。すでにコロナはインフルエンザと同等の病気と認識されている。

 マスク生活が終わると何が起きるだろう。一時的な感染者増加は起きるはずだ。しかし、かつての脅威はない。むしろ人々の活動が活発になることによる様々な変化の方が気になる。再び喧騒の世界に我々は復帰できるのだろうか。

 学んだことがあるとすればソーシャルディスタンスをとっても社会は維持できるということだ。人口減少の未来を少しだけ予見できた。人的資源が失われても社会をどのように運用するのかを知ることができた。だから、決して慌てる必要はない。

 むしろこの自由になった空間で私たちは日常を楽しむべきだ。そしてダウンサイジングする社会をどう切り盛りするのか考えるべきだ。マスクを外したらまずはこの国の将来を考えよう。自分ためにも家族のためにも。

ブランド

 デパートはかつては特別な空間だった。いろいろなものが同じビルの中で手に入るというだけではない。少し高めの価格設定でほとんど割引もしないが、デパートで買ったというだけで満足できる何かがあった。ブロの接客や、高級感のある包装の仕方などがそれを支えていた。

 デパートにいま行くとその感覚は薄い。生活雑貨や衣料や家電の量販店が階ごとテナントとしていることろも増えた。こうなるとショッピングモールと区別はない。一つの建物に限定される分、むしろ大型のショッピングモールよりはるかに見劣りしてしまう。販売員も他とは変わらないので、デパートの優位性というか異空間性というべきものはほとんど失われている。

 デパートがデパートして生き残るにはやはり、この特別意識をいかに演出するべきなのかを考えるべきだろう。ほかにはない商品を扱うという方法もあるが、いろいろなものがコモディティ化している中では高級ブランドも実は需要が少なくなっている。必要なのは買い物空間としてのブランド化である。そこに行くと特別な購買体験ができるという経験を商品化するしかない。そのためには接客のプロや商品選びのプロが必要だ。人件費がかかり、その結果商品の価格も高額になる。でも、量販店や、ネットショップでは得られない特別な体験を演出できれば存在する価値がある。

 買い物という行為そのものに対してどれだけこだわることができるのか。世の中が安く手に入ればそれでいいと考える風潮があるなかで、あえてそれに反する商法を行うことで存在意義を見出せるかもしれない。

酪農の危機

 酪農業界が危機的状況にあるらしい。牛乳の消費量が減り、生産量と見合わないために大量の生乳が廃棄されている。乳牛も処分されつつあるという。食料自給率の低い日本としては大きな矛盾である。

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 コロナで需要が落ちたことや、それ以前の供給不足から乳牛の数を増加していたことなど複数の要因が重なって酪農業は今大きな危機を迎えている。円安による輸入飼料やエネルギーにかかる費用の高騰も影響しているようだ。乳牛は機械ではないので生産調整をすることは容易ではない。搾乳しなければ病気になる個体も多いという。先行投資の大きな酪農家にとって、収入の道が立たれることは廃業につながる。結果的に食料自給率は低下することになってしまう。

 脱脂粉乳や、加工製品に回すといった手は誰しも思いつくが、それも手詰まりになっているらしい。消費されない在庫が余っているというのだ。思うに、乳製品の値段を一時的に下げ、より多くの人に消費してもらう方がいい。下げすぎると採算が合わなくなるので、この辺の調整は専門家が行うべきだ。酪農家を守ることは日本の食料自給事情を保つために欠かせない。国家的な政策が必要だ。

 乳製品は様々な用途で使われているが、輸入品もかなりある。国産品の保全のために、短期的に関税率を上げるなどして調整する方法もとるべきではないだろうか。これらの方法は常に見直し、実態に合わせて運用していかねばなるまい。これから様々な方面でこうした問題が出てくるはずだ。農政は日本の重要課題であることを痛感する。

合従連衡

 日本には高い技術力や多額の資本を持っている企業はあるが、海外の超大企業に伍するだけの力はない。アメリカのような大企業を即座に作るのは難しく、国家が企業運営に容易に介入できる中国のようなやり方もできない。だとすればやるべきことは団体戦である。

 同業種が合併せず、独自のサービスを維持できるならば、質的低下を避けて協力しあえる。異業種間の連携ならばイノベーションも起こしやすい。そういうことの調整役をする専門家が必要だ。

 中国の古代戦国時代では群雄割拠の中での生き残りの方法が模索された。それが同盟の組み方である。大国と組んだ小国は結果的に滅ぼされ、小国の同盟はかなり持ちこたえた。現代であれば小よく大を制すもありうる。学ぶべきことはあるはずだ。

貧すれど

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 貧すれば鈍するということばがある。貧困が生活の質を下げ、モラルやマナーといった基本的に大切なものを守れない人が出てくるという意味だろう。わが国は世界的も礼節を重んじる習慣があると認められているように思うが、最近それが危うくなっている。それはやはり忍び寄る貧困と関係があるのだろうか。

 昔から社会的な問題行動を起こす人はいた。基本的な社会生活に必要な協調性が薄く、独善的ですぐに文句をいう人である。これは最近の科学では脳の機能低下と関係があるといわれている。機能低下は加齢によって誰でも起こるが、それ以外でも栄養不足や運動不足、過度のストレスなどによっても起こるらしい。これらは貧困と相関がありそうだ。ならば、貧困が進めば問題は一層大きくなっていくということになる。

 さらには社会的な風潮、世相も影響する。特に日本人の気質の一つである同調志向は、この傾向を具現化しやすい。誰かのもたらした悪影響がたちまちに広まってしまう。ソーシャルメディアの無責任な発言がそれに拍車をかける。経済的貧困と精神的貧困が負の相乗効果をもたらし、正義や礼節の感覚を鈍化させてしまう。

 残念ながら昭和期にあったような経済成長は望めない。これから起きるのはやや角度のきつい降下線であると予測されている。その中で少子高齢化は進み、活力は一層失われる。イノベーションを期待するが、おそらく現状維持ができればいいということだろう。あくまで現在の経済的価値観での話であるが。

 ならば貧すれば鈍するではなく、貧すれど鈍せずの道を歩むしかない。まずは貧困の定義を変える必要がある。十分に有り余る物資を使い捨てするのが豊かであるという価値観をやめ、今あるもの、今あるシステムを大切にして、それを改良するという方法を取り、それが達成されることに幸福感を求めるようにしていくべきだ。いわゆるブリコラージュの発想も本来日本人に備わっていた考え方だと言える。結果的にそれが環境問題や、人口減少問題の解決の糸口になることは素人にも予測できる。

 こういう発想の転換にはきっかけが必要だ。歴史的には困難な時代に偉大なる指導者や思想的なカリスマが登場して人々の考え方を変えていったように思う。それが平和的に行われず、天変地異や革命、戦争などの悲劇の時期と多くの場合に重なっていたことは注意しなくてはならない。もちろんこうしたことはあってはならない。起こしてはならない。昔の人と異なるのは私たちはかなりの人が文字が読め、話し合うことが可能だ。だから、実際に悲劇が起きなくても、それを想像し、その対処を論理的に考えることができる。端的に言えば歴史に学ぶことができる。事例学習ができる。

 徐々に衰退に向かう社会において次に起こりうることは何か。それを考えることも必要だ。そしてそれを考えさせるきっかけを作ることも必要だと思う。そのためには歴史をもっと学び、思想を学ぶことをおろそかにしてはならない。最近はテクノロジー偏重の教育がなされつつあり、また社会的なニーズもそちらに傾いている。しかし、そもそも社会を成り立たせている仕組みや、その仕組みを支えている基本的な姿勢、ものの考え方について多くの人が意識し、その重要性に気づくべきだ。

 貧すれど理想を忘れないことを多くの人が目指すことができるか否かがこの国だけではなく、現代人の命運を握っていると言えそうだ。

値上がり

 買い物をすると会計のときに値上がりを実感する。一つ一つの品物は僅かな値上がりでも、それが集まると大きくなる。当たり前だが事実だ。

 このちょっとおかしいが毎日続くとさらに大きな負担になっていく。私たちはしばらくインフレを経験していないのでこの違和感を理解するのに時間がかかる。

 収入の方は上がらない。経営者にはここで考えてほしい。金が回らなくなると結局自分の商売に返ってくる。人件費や投資をケチってはならない。

1円パック

 黒部市に住んでいたいた頃、あるスーパーの卵の値段で驚いたことがある。1パック1円と言うのだ。条件があって他の買い物を500円以上することだった。低過ぎるハードルなので何度もお世話になった。

 卵は価格の優等生と呼ばれ、時代を越えて値上がりしないものの代表だ。かつては卵は高価で寿司屋に行くと玉から注文した人もいたという。卵は生食だけではなく、様々な料理に活用されている。それが安定的な流通を支え、価格が変動しにくい理由であったのだろう。

 ところが現在、鶏卵の価格が上昇している。円安や飼料の価格高騰の影響もあるが主因は鳥インフルエンザの蔓延である。予防策はなく発見されると鶏舎単位て殺処分になってしまうという。

 人間の病も一向に収まらないが、動物の疫病にも困ったことである。対処策を見つけたひとはきっと世界中から感謝されるに違いない。

 1円パックに喜んでいた昔は懐かしい。ただ、もう少し食べ物に敬意を払い、畜産業の発展に繋がる消費行動を取るべきではなかったかと考えてもいる。

賞味期限間近

 近隣の書店の一角に食料などを売るコーナーができた。賞味期限が近い商品を売ることで、食品ロスを減らす活動だという。見ると、お菓子やお茶、インスタント食品などが並んでいる。賞味期限を確かめると1~3か月後というものがあったが多くは6か月くらいはあるものだった。それらが数割引きで売られている。

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 賞味期限ということにこだわる人は一日でも過ぎたら食べられないように考える。私のような大雑把な人は数か月過ぎても大丈夫だと思って現に食べてしまう。それで食中毒になったことは一度もない。

 そもそも賞味期限とは何か。農林水産省のサイトには「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「品質が変わらずにおいしく食べられる期限」のこと。」と説明されている。同じページには消費期限という分類もあり、「袋や容器を開けないままで、書かれた保存方法を守って保存していた場合に、この「年月日」まで、「安全に食べられる期限」のこと。」とあり、こちらの方は安全性が言及されている。つまり賞味期限はメーカーが味に対して責任を取る起源であり、食べられるか否かの基準ではないことになる。しかし、味の保証をしないものをメーカーや小売店が扱うことはできないため、消費期限は通常は表記されず、賞味期限が近付けば店頭から取り除かれる。

 中には賞味期限切れをセールスポイントとして商品を売る店舗もある。格安の値段で売られる商品はフードロスを大義名分とし、メーカーからは在庫処分の方法として、消費者からは割り切って安価で求めることができる手段として商売が成り立っているそうである。ネットで同じようなことをするサイトもある。

訳あり品をお得にお買い物「junijuni」

 こうした試みはいろいろなことを変えていく突破口になりそうだ。もったいない文化を世界に発信しながら、食品廃棄率の高い矛盾を解消するためにもこうした方法に注目していきたい。使えるものは使うことは日本人の伝統的な思考方法に通底するから普及するのは容易なはずだ。