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怒り方の色

 最近、よく怒られる。しかし、昔ならメンタルをやられたはずなのに今は気にしなくなってしまった。それにはいくつか理由がある。上司に怒られることが多い私のような方のためにやり過ごす秘訣を伝授しよう。

 大体怒りの原因の多くは本人の立場保全のためだ。部下にそのようなことをやられたら私が困る。要約すればそういうことだ。管理職ならば、部下の失敗をカバーするべきなのにそれを放棄して叱りつけるだけだ。これを見透かせるようになってから、叱られてもなんともなくなった。失敗は素直に詫びるがそれで許してくれるなら、理想的な上司だ。さらに愚痴を言ってきたら、心の中で笑っている。この前はそれを見破られてさらに怒られ、さらに笑った。

 管理職にはなったことがないが、過酷な職種だと思う。すべての責任が問われるのだから。でも細かいフラストレーションを部下にぶつけているようでは先がしれている。そもそも管理していない。

 私はそれが分かってから叱られるのが楽しみになった。度量を見透かす機会だからだ。ならば理想的な上司はどうすればいいだろう。それは怒りの色のグラデーションを多彩に操ることだろう。起こっていることがあなたのためだとしっかり伝えることなのだろう。私ごときに見透かされることがないように。

 怒られてばかりの平社員の皆様に言いたい。上司も辛いのだ。人を叱るスキルもないままに職を与えられてしまった。少し耐えればあなたがこの職に就ける。その時に思い出してほしい。怒り方、指導の仕方の多彩さを心掛けよう。それができれば今の上司を凌駕できるはずだ。

満員電車の乗り方

 4月も半ばを過ぎて新年度の生活にもかなり慣れ始めた頃であろう。コロナ制限が解除され、元の生活が戻りつつあるのはうれしいことだ。ただ、困ったことも戻ってきた。満員電車である。

 満員電車はリモートワークが推奨された期間は一時なりを潜めていた。それがリモートでは仕事が捗らないという体験から、徐々になくなり始めた。そして元の過密空間が戻ったのである。

 満員電車に乗るためには降りるまでの行動を予め理解しておくことが必要だ。私のように終点前の駅で降りる場合、特に注意がいる。まずは降りられる位置に立つことだ。

 ドアの前に立ってはならない。乗降の妨害になるし、場合によっては、新たに乗り込む人たちに押されて降りにくい位置に流される。だから、少し入った座席前の吊り革を確保したい。理想的には入り口から2〜3個目がよぃ。可能ならばドアから見て進行方向とは反対の、つまり後ろ側がよい。こうすると停車前のブレーキで慣性の法則と戦わなくてよくなる。

 降りるときは一声、降りますとつぶやくといい。満員電車の乗客には一種の連帯感が生まれやすいので協力してくれる。ただイヤフォンで外界との連絡を絶っていたり、スマホに魂を売り渡している輩には通用しないので、軽く押すしかない。

 この要領を心得ていないと降りたい駅で降りられないこともある。降りられなかったら、正直に上司なり教員なりに事情を話すべきだ。いまの時勢ならは許してくれるはずだ。ただし一度だけであろうが。

 数年分の満員電車未経験者が今は狼狽している。案ずることはない。すぐに馴れる。そして来年の春、満員電車デビューの人たちを哀れむことになる。

自然音との調和

 現在、使用中の国語の教科書には坂本龍一氏のエッセイが掲載されている。音楽とはなにかを語りながら、人の生き方に迫る名文だ。

 我々が音楽と称しているものの大半は調律された音階と、規則的なリズムとで構成されており、それが評価基準になっている。でも、それは極めて人為的な不自然なものであるというのだ。

 実際の音は極めて多彩で偶然性に溢れている。それにこそ魅力がある。これはなんでも他人の基準に合わせることが正しいとする現代人の価値基準と対立するがそれ故に魅力的なものの見方である。

 流麗なメロディーメーカーの意見として玩味すべき文章だ。逝去の報に接し残念でならない。

ふるさとは

 統一地方選挙の対象地域ではないが、隣県が知事、県議、市議のすべての選挙が行われるらしく巨大な掲示板が立っている。また、すでに選挙戦が始まっており、様々な候補者が演説している。その中で気になったことがある。

 ある候補はふるさと納税の弊害を訴えていた。その内容によると、本来市に入るはずの税金が他の地域に流失している。その額が非常に大きく、損害というほかないというのだ。これは多くの人が考えていることであり、大都市圏の自治体にとっては深刻な問題なのであろう。

 ふるさと納税を実施する人の多くはいわゆる返礼品が目当てである。魅力的な返礼品を用意する自治体には税が集まりやすい。人口の少ない地方都市町村にとっては重要な収入源であるから、この制度には意味があるのだ。

 ただ、ふるさと納税の目的はあくまで納税者がその地域の支援をしたいという意志に基づくものであり、その結果自分の住んでいる地域の福祉への支援が少々低下するという意識が必要だ。こういう考えを持っている人は少なく、私もいま理屈では理解しても、実感に基づくものではない。都会人であればあるほど、自分の居住地域に対する愛着は低く、仮の住まいという考えが強い。だから、税をどこに収めようとかまわないと考える。

 最後まで演説を聞かなかったので、どのような結論なのかは分からない。ただ、言えるのは納税者の態度を責めたところで得票には至らないということだろう。その地域の住民ではないのでそれ以上は言えないが、要するに自分の住まいに愛着が足りないということを言いたいのだろう。

 彼は政治家としてどのような政治を展開すべきだろう。まずは自分の住まいに愛着をもたせるような政治を行うことを目指すべきだろう。そのために何をすべきなのかを考えるべきだ。ふるさと納税という視点で考えれば、地方自治体の政治家の仕事の一つは住民の地域社会への関心を高めることだ。税収増につながるのならば、それは立派な仕事といえるだろう。あなたのふるさとはどこなのかとなじる前に、ふるさとを一緒に作りましょうと訴え、それを粛々と実行する人が地方自治体の政治家にはふさわしい。

Someone to watch over you

 川崎駅周辺に100以上の監視カメラが設置されるのだという。川崎市長は全国で最も安心できる街にすると記者の取材に対して述べたらしい。川崎は現在訪れるとかなり整然としているが、かつては犯罪も多く発生していたので危ない街という印象がある。おそらくそういう先入観を払拭したいという考えもあるだろう。

 川崎に限らず設置者の公私を問わないならばすでに多くの監視カメラが設置されている。警視庁が設置するカメラは分かりやすいが、そのほかにも駅の改札付近のカメラやコンビニエンスストアのカメラ、個々人が防犯のために玄関から外を写しているカメラなどがある。さらにこれは盲点かもしれないがいわゆるドライブレコーダーは移動しながら街の様子を記録し続けている。

 すでに現代社会は監視されている社会なのである。いまのところはそれを統合することは難しいかもしれないが、やろうと思えばできてしまうテクノロジーはそろっている。犯罪が起きないようにするため、起きてもすぐに犯人を特定するためにはこうした技術は有益だろう。ただいつも誰かに監視されているということを忘れてはならない。世間の目がゆるさないという日本人が伝統的に持ってきた価値観はすでに形而上学的なものではないということなのだ。

 エラ・フィッツジェラルドの名曲 Someone to watch over meのようなロマンティックな状況とは少々違う。

4月から

Photo by Karolina Grabowska on Pexels.com

 私の職場では4月からマスクの着用義務がなくなった。ようやく自由に仕事ができると思いきや意外にも当面つけ続けることを考えている人は多い。3年もマスクをつけ続けたための弊害もある。

 もちろん、いまだコロナウイルスの感染の恐れはなくなっておらず、一定の予防効果があることは捨てがたい。私にとっては花粉症の方がその何倍も恐怖である。今シーズンは飛散の量が多めらしく、周囲に症状が出ている人が多数いる。花粉症シーズンが終わってもまだマスク着用を続けるのかがこの話題の問題点になるのだろう。

 マスクの着脱が個人の判断であるかどうかを私は問題にしたいのである。パンデミックの前から季節に関わらずマスクをしている人はいた。それには体質的な問題もあれば、精神面での要因もある。何から自分の身を守るのかは疫学だけでは語れないのだ。それを認めることがこれからも大切なのだ。

 危惧するのはいわゆる「マスク警察」を自任する人が勘違いを起こさないことだろう。自分とは異なる少数派をあたかも犯罪者のごとく排斥する行為は、残念ながらこのパンデミックが露呈してしまった。今度は脱マスクに関して行き過ぎた行動をすることはないだろうか。

 同調性が極めて強い私たちの国民性は新しい局面に移行するとき様々な問題を引き起こす。慎重さが奏功することもあるが、対応が遅れたり、少数派を傷つけたりする負の局面も多い。個々人が判断することの大切さを現在の状況は求めているのだ。

高層マンション

 近隣で高層マンションが建設中である。土地の利用という点において高層住宅は効率的であろう。ただ少し心配になる。

 耐震免震の技術は進んでおり、よほどのことがなければ崩壊することはない。その規模の大地震ならば高層建造物でなくても壊滅しているはずだ。思うに電力などのライフラインが途絶する事態になったときにどうするのかということだ。先の大震災でも被災地から離れた地域でもエネルギー確保に深刻な状況が続いた。

 こういうもしもの事態に対して建造物の住民はもちろん、地域の住民も含めてシミュレーションをしておくことが必要だと感じるのだ。

 いかに科学的な裏打ちごあったとしてもそこで暮らすのは人間である。巨大な長屋であることを考えなくてはなるまい。

東急100周年

 東急グループが100周年を迎えた。沿線に住む者として、公共交通機関や流通の提供に感謝したい。子どもの頃と学生時代、そして現在と中断期間はいくつかあるが長い間お世話になっている。

 子どもの頃も今も田園都市線の沿線に住んでいる。いまは田園を感じさせる風景は限られているが、かつては雑木林や田畑が車窓からいくつもみえた。そこに緑色の先頭が丸みを帯びた電車が時折り走った。ステンレスの車両に置き換わりつつあったが緑が来るとなぜか嬉しかった。今より狭くうるさい。そして機械油の匂いがしたように思う。この旧型車両は急速に消えてしまった。いまは博物館にしかない。

 子どもの頃はストライキがよくあった。恐らく中学生か高校生のお兄さんが線路に入って遊んでいるのをみたことがある。ストライキとは何か何のためにするのかをほとんど理解していなかったが、テレビニュースが大騒ぎするのとお兄さんたちの謎の行動が脳裏に焼き付いている。

 しばらく東京を離れて、また戻って来たとき、中学生と高校生では東急電車との縁が切れた。ただプラネタリウムのあった文化会館やその屋上の遊戯施設、小さなステージで河合奈保子のキャンペーンに参加したこと。東横店での買い物などグループのお世話になることがあった。

 大学生になって東横線で通学するようになり、その後就職して関東を離れると再び東急との縁がなくなり、十数年ぶりに帰った生活圏が東急沿線だった。何かと縁があったということだ。

 関東の私鉄は私たちの生活に欠かせない。文字通りのライフラインである。これからも安全な運行を続けていただきたい。

合格した皆さんへ

 大学に合格した皆さんに申し上げたい。その合格は決して自分の能力だけで勝ち取ったものではない。学習が出来る環境を用意してくれた家族や周囲の人々に感謝すべきなのだ。

 嫌な言い方をすれば貴方よりずっと有能で有望なひとは必ずいるはずだ。彼らの中には学習しようにもそのような環境に恵まれなかったひとが少なからずいる。もし彼らが条件を勝ち取っていたら、貴方よりもっと素晴らしい何かを成し遂げる人が登場したかもしれないのだ。そのことを忘れないでほしい。

 貴方がたの中には将来的エリートとしての人生を歩む人もいるかもしれない。大学でさらに学び何かをすればの話だが。エリートになった時に考えて欲しい。限られた人しかエリートに慣れない国家と、才能ある人がチャンスを生かせる国家のどちらがいいだろうか。自分さえ幸せならばそれで構わないと考える特権階級ばかりいる状態と、自らも切磋琢磨しなければ後生をおそれることになる社会のどちらが健全なのか。

 自分だけよければいいと考えるエリートがやがて社会を壊す。そんな予感がする。すでに多くの兆候がある。決して間違ってはならない。大学に合格した人ならば分かるだろう。多くの栄華を極めた王族や国家、企業の衰退の原因を。

みんなマスクをしています

 今日は翻訳ソフトを使って読んでいる方にも誤解なく伝えるために易しい日本語で書くことにした。

 日本の政府の方針で昨日からは多くの場所でマスクをつけなくてよくなった。これまではほとんどの場所でマスクをつける義務があった。これを怠ると、その施設の従業員から注意をされることもあった。それがなくなったのだ。

 2020年ごろ、日本ではコロナウイルスに感染する人は他国と比較すると極めて少なかった。それが、2022年ごろからは感染者数が増えていった。日本人はマスクをつけ続けていた。ワクチン接種する人の割合は国際比較すれば恐らく高かっただろう。しかし、感染者は増え続けてしまった。だから多くの国民はマスクをつけ続けた。理由はよく分からないが、つけている方が安心と言われていた。その結果、ちょっとした問題も起きた。マスクをしていない人への行き過ぎた叱責だ。

 日本人がマスクをつけ続けたのにはいくつかの要因がある。その一つが厳しい自主規制である。法的に刑罰の対象になることはないが、マスクを着けていないという理由で注意されるという場所はかなり多かった。それは国民性の影響もある。

 日本人は周囲との調和を重んじる。だから、自分だけ他人とは違うことをすることは避けようとする。自己の主義を貫くことはしばしばわがままとされるのだ。だから、マスクは明らかに要らない場所でも外すことはない。昨日近くを歩いた公園でマスクを着けていないのは幼い子どもだけだった。

 もちろんこの時期にマスクをする理由はコロナウイルスだけではない。大量に植林されたスギやヒノキの花粉が飛散してアレルギー反応をもたらす。学者によっては日本人の大半がこの手のアレルギーを起こしやすい遺伝子を持っているらしい。だから、マスクを外すのはこのピークが終わる来月ごろからという人が多いはずだ。私もその一人だ。

 日本に訪れる方やニュースなどで日本の街角の映像が放映されるのを見た方はいまだマスクの集団が大半であることを不思議に思うかもしれない。だが、このような事情があるからであり、危険な訳ではない。念のため不織布マスクを一つ鞄に入れておくといい。何かと役に立つだろう。