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春の雨

 十八九の頃、郵便配達のアルバイトをしたことがある。もっと割のいい仕事はあったのだがなぜか肉体労働がしたかったのである。

 業務は郵便番号ごとに郵便物を仕分ける仕事と、ポストにはいった郵便物を収集すること、それに配達だった。

 仕分けの仕事は大まかなことは機械がやるが、集合住宅の部屋番号ごとの区分けなどは手作業で行われていた。バイトはその補助を行った。私が働いた郵便局は東京の中でも人口の多い地域だったのでこの仕事だけでも大変だった。職員(当時は郵政省の管轄だった)は私の何倍もの速度で仕分けしていたのたのを覚えている。悪筆で数字が読めなくても何号室と瞬時に教えてくれた。大体の住人の名前を覚えているかのようだった。

 ポストからの収集は結構プレッシャーがかかった。郵便車を交通量が多い路上に長くは停められないということで、運転する人とポストの鍵を開け、郵便物を取ってくる人とに仕事を分けられる。私のような学生は当然、取ってくる方の仕事が割り当てられる。いまのようなレターパックはなかったが、それでもかなり大量の郵便物が詰まっていることもあった。するとかなり重いのである。雨の日は特に大変で濡れないようにするのが一苦労だった。運転手の中には時間がかかると不機嫌になる人もいて謝ってばかりいた。理不尽な怒りをぶつけられたこともある。要領の悪さを嘲笑されることもあった。

 配達は自転車で集合住宅それも大型マンションの配達を託された。大抵は入り口に共同の郵便受けがあり、その中に郵便を入れていく仕事だった。かなりの家が氏名を表示しておらず、部屋番号だけが頼りだった。中にはほとんど受け取りがなされず、満杯になっているものもあって、無理矢理詰め込んだこともある。

 細かいことは忘れてしまったが、もらう給与の割には大変な仕事であった。家庭教師などすればその何倍もの金が短時間で手に入ったが、なぜかそれは好きではなかった。いま教員をしているというのに。

 自転車で配達をしていたとき、細かな雨が降ったことがあった。予報ではそれほど降るとはいっていなかったので雨具を借りることもなく出てしまった。郵便は蓋を締めて防水できたが自分は濡れる。焦りもあってペダルを漕ぐ力を強めると自然と汗が流れた。3月下旬の頃だった。

春の雨静かに落ちて郵便を配る男の汗に変はれる

 という短歌を作って当時入っていた短歌の会で披露したら、集まっていた年配の方々にとても褒められた。こういうことは何年経っても覚えている。それだけでこのバイトをした意味があったのかもしれない。

 この季節になると時々思い出す。いまはネット時代で郵便の量はその当時から比べるとかなり減ったはずだ。仕分けも機械読み取りの制度が高まって人力の範囲は減っているに違いない。今となっては自転車で配達など数日でも無理かもしれない。何もかも懐かしい。

短歌を教える

 授業で短歌を教えることがある。古典和歌ではなく現代短歌をおしえるときには文学性はもちろんだが、もっと違うものを引き出すことを考えている。

 国語の授業は最近ますます情報処理の方面に近づいている。書かれていることを正確に読み取り、それを短くまとめるという能力だ。実用的な文章においてこれは大切であり、必要不可欠な要素であることに相違ない。ただ、これはいわば機械でもできることだ。ちなみにChatGPTに短歌を中高生が学ぶ意義を尋ねたところ、

 日本語の美しさを学ぶことができる:短歌は、五・七・五・七・七という音数の制限の中で、豊かな表現力を持った日本語の美しさを表現することができます。短歌を通じて、日本語の響きや表現力に触れることができるでしょう。

 感性や思考力を養うことができる:短歌は、短い詩であるため、それぞれの言葉が持つ意味や表現力が重要となります。そのため、短歌を書くことで、言葉をより正確に選ぶ感性や、自分の思考を深める力を養うことができるでしょう。

 文化や伝統を学ぶことができる:短歌は、日本の伝統的な詩形であり、古くから多くの人々に愛されてきました。短歌を学ぶことで、日本の文化や伝統を理解することができるでしょう。

 創造力を発揮することができる:短歌は、自分の感性や思考力を活かして、自由に詩を書くことができるため、創造力を発揮することができます。

OpenAI

 以上のような実に模範的な回答が得られる。しかし、実際に短歌を作ってほしいと頼んでみると即座に「木漏れ日 きらめく枝先に 小鳥の 歌声響く 春の息吹」という作を披露してくれた。残念ながら短歌ではなかった。定型が守られていないのは存外として、これでは詩としての感動がない。春に小鳥というよくある取り合わせを並べたものに過ぎないのだ。

 なぜ(いまのところ)機械と人間との創作に差があるのかと考えれば、やはり意味の理解の差にあるのかもしれない。私たちは言葉の背景にある意味を考え、その言葉が取り合わされたときに生じる意味も考える。「春」に「小鳥」が「枝先」で「歌」うのは統計的に非常に多いものであり、それを短歌にしても感動は生まれない。でも例えば先ほどの短歌を、

 木漏れ日のきらめく枝に小鳥らの歌声響くことのない春

とすると、趣が変わる。なぜ春なのに小鳥は鳴かないのか。疑問とか不安とか正体は分からないが作者の一度限りの感情が読み取れてくる。

 おそらく短歌の教育で教えたいのはこういうことなのだろうと考えている。詩という形式が何をもたらすのか。それは論理的な読解だけでは表現できない、情動なり空気なりをぎりぎりの段階で言葉としてつかみ取る方法なのだということを気づかせたいと思う。