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雑木林

 毎朝通過する車窓からの風景の大半は住宅街だ。しかもかなり密集していてこの方面の開発が成功したことを意味する。

 子供の頃もこの辺りに住んでいたがもっと緑が多かった。雑木林が点々と残り、そこにはいろいろな動植物がいたと思う。今残るのは緑地であり、管理下にある非住宅、非商業地帯である。散歩できるように頻繁に手入れが入るため、かつての禁足地的な雰囲気はない。

 安全性や周囲との関係性を考えると雑木林は都合が悪いのだろう。便利とともに多くのものを失った。ビルや住宅の群れをブナやらシイやら、さまざまな雑木の幻影としてみると不思議な感慨に包まれてしまう。

北千住

 北千住には小学校に上がる直前まで住んでいた。親が東京での生活を始めた借家があったのだ。

 年齢が年齢だけに覚えていることは少ない。隣に同年齢の少年がいたのは心強かった。下町ゆえいろいろな住民が雑居していたようだ。近くにほうきを作っている工場があり、演歌歌手の住まいもあった。ヤクザなので近づかない方がいいといわれていた家もあった。当時相当売れていたか歌謡曲の作曲家の大きな屋敷があり、白い犬を飼っていた。その犬に噛まれて嫌な思いをした。入り組んだ細い道は蝋石で落書きする遊び場になった。ローラースケートをして転んで擦りむいた。

 断片的な記憶が浮かぶ。中には混同したり、事実とは異なることもあるのだろう。いま北千住はかなりきれいになり、かつての場末感はなくなっている。

通勤リハビリ

 ご存知の通り東京の満員電車の凄まじさは異常です。その生活から一時的に解放された日々を送ってきた私たちにも、再びあの日々が戻ってきます。

 東京の通勤電車の混雑の治安が維持されているのは、長い間順応してきた国民的努力の賜物です。他者に迷惑をかけないという教育以前の思考形式というか国民性とでもいうべきものが、異常な過密状態でも正気を保てる原因だといえます。

 ただこの性質は常に更新されなくてはすぐに消えてしまうものなのかもしれません。毎日、過密な人間関係を経験しているからこそ、保てる感覚なのかもしれないのです。すると今後数か月は非常に危機的な状況になるかもしれません。

 以前の寛容力もしくは忍耐力が回復できるのでしょうか。すでに勝手に自警団を自認して、同調圧力の先導者となっている人々がいることを考えると少し恐ろしい予感があるのです。

 冷静に大局を見られる人は実はさほど多くはありません。また、考えていても他人に引きずられずに信じることを通せる人も多くはない。かく言う私も結局長いものに巻かれる日々を過ごしています。

 とりあえずは通勤電車に乗っても動じない心の強さを取り戻すリハビリテーションをやっていこうと考えています。

小さな旅

 生活圏を離れて旅をすることは大切だと思います。日常の生活に倦んで新しい考え方ができなくなってしまったとき、別の町に行くことで新たな発見をすることもあるし、自分の日常を俯瞰的に見るきっかけを与えてくれることもあります。

 同じことを旅行に行かなくてもできる方法があります。いつもとは異なる時間に普段は立ち寄らない場所に行き、わずかなときを過ごすのでも同様の効果が得られることがあります。自分の住んでいる街なのに見方を変えれば全然違って見えるという体験です。小旅行にでも行ったかのような感慨を得ることができるのです。

 私たちは実はかなり限られた生活圏の中で、同じことを繰り返して生きようとしています。生活に道筋をつけるのは雑多で複雑な現実を乗り切るための知恵ですから視野が狭くなっていくのは当然です。狭い世界の中に自分の居場所を確実に見つけることが生きる知恵ということもできます。

 それをあえて壊すときがいるということを言おうとしているのです。安住の地を捨てることで常に新鮮な感覚を保つことができます。そしてそれは高い旅費をかけなくてもできることなのです。