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自意識

 正直に言って本当は理解できていないのが性同一性障害である。心と身体が一致していないというのだが、では心とは何か身体とは何かを考えなくてはなるまい。

 心とは自分はこういう存在であるという意識のことだろう。この意識がかなり強固で他人から見られてそう思うのではなく、自らそのように考えていることになる。一般的には自意識の形成には他者の関与が不可欠だ。誰かにあなたはこういう人だと言われていくうちにそういう人になる。

 ところがこの場合は他人から逆の扱いをされながら、それに抗う形で自意識を形成することになる。あるいは他者にとっての他者が自分という考え方自体が間違っていたのではないか。そうも考えさせられる。

 考え方を変えてみる。生まれながらに自分にもともと自意識があり、それが自分とは何かを決めているとする。この場合は心と身体が一致しているわけだから、何の問題も生じない。性的指向が多くの別の個体と違っていても、自分がそういう存在であると知って振る舞っている訳である。社会全体がこの考えなら、多様性はそのまま受け入れられて問題はない。

自意識の持ち方は多様だ。

 自意識が自然発生的にもしくは本能的に生じるものなのかと言えば、私はまだ懐疑的だ。日本に生まれ育てば、価値観や人生観はその集団に共有されるものになる。それは男女の性別や、人種などとは無関係であろう。やはり、社会の中で自我が形成されると考える方が分かりやすい。ならば、男らしく女らしくというジェンダーもそれが所属する集団の中で形成される。そのとき社会の成員は外見上の身体的特徴をもって意識付けをしていくはずだ。

 トランスジェンダーと呼ばれる人たちの意識はこうした事実と異なっているように思える。でも、よく考えるとそうでもないのかもしれない。自分が属する共同体の中で男らしくあれと有言もしくは無言で規定された人は、そのように振る舞うことで自意識を形成する。つまり演じているのである。この演じるものを何らかの事情で反対のものにした場合、別の自分を演じることになる。演じるという表現は誤解されるかもしれない。これは上辺をごまかすのではなく、自分の身体を自分の心がどのように動かすかということである。これには脳の動き方も含まれる。

 身体は男だけれど心は女という場合、この人は女を演じようとしているのに、身体がそれに合う形をしていないということだろう。

 少々複雑になったが、自意識が自分の属する集団の影響下で形成されるのは間違いではない。ただ、その中で形成される自意識とは自分が自分の身体をどのように操るか、どのように振る舞うかということであって、ここで反対の性を演じる対象として選んだ場合にトランスの状態が起こるのだろう。

 ここまで書いてきたが実は納得できていない。今のところは言語操作をしているに過ぎない。ただ、こういう試みから、自分とは何かを考えることはできるという感触は持てた。

夜桜

桜に月

 数日前、近くの公園は桜の盛りを迎えていた。すでに散り始めた枝もある。見上げると月が出ていて、その光に桜花の彩りが一層引き立つ。

 恐らくこの光景は数日の後にはなくなる。桜は偶然を痛感させる。実はすべてのものが一度限りでありながら、似たものを見たり聞いたりすることで永遠に繰り返されているような気になってしまう。

 今日の夜桜は今宵限りだ。ただ夜桜なるものは来年もこの場所であるだろうし、この場所でなくても似たようなものはある。一回性か普遍性かそんなことも考えさせる。

 ただ言えることはこの日の夜桜はよかった。これまでの中でもかなりいい部類だということだ。

線路沿いの植物

 通勤電車からいつも見る風景にいわゆる雑草が線路沿いに生えているものがある。あまりに当たり前の光景なので大半は視界に入っても意識には上がらない。

 過酷な条件と思われる線路際にも結構いろいろな植物がある。過酷と書いたがたまに保線の際に草刈りが入ること以外は、人の出入りが禁じられており、むしろ植物にとってはサンクチュアリのようなものなのだろう。

 あらゆる場所で適合し、命を伝えていく動植物の力には改めて感動せざるを得ない。

オナガ

 コンクリートとアスファルトで覆われた都会にもいろいろな野鳥がやってくる。最近はオナガの群れをよく目にする。

 印象的な長い尾羽根を伸ばして滑空するように飛ぶ姿はなかなか見どころがある。羽根の色も青と黒とが映える。鳴き声だけはけたたましいがそれも魅力の一つとも言えなくもない。

 この鳥は富山に住んでいるときにも見たことがある。ただ西日本では少く、東日本に偏在しているらしい。なぜこのような姿になったのか。どうして特異な分布をしているのかなど謎も多い。

 鳥を見ると世の雑事からひととき解放されるような気分になれるのはいい。今日も暑いようだが頑張らねばと思う。

ワクチン

 アメリカの企業がコロナウイルスに対応できるワクチンを完成しつつあるという報道は希望と動揺を引き起こしている。このおかげで株価は上昇した。経済活動の平常化が期待されたからだ。実際には何も変わっておらず、むしろ罹患者は激増しているのにも関わらず。

 ワクチン開発には様々な関門があり、実際には数年かかるらしい。今回のパンデミックに際しては前例によらない急作業でなされており、弊害も今後出てくるはずだ。ただ、一日で数万の罹患者を出している中で、背に腹は変えられない。そこにクレームもつきにくい。

 ワクチン開発に日本企業の発言権が小さいのは残念だ。国策として支援することもなかったようだ。利益以上に国際貢献の具となったはずなのにもったいない。いまだ開発中の製薬会社には諦めず続けていただきたい。先行する薬品に問題が生じたとき出番が来ることは十分に考えられる。

紫陽花

 梅雨入り前にしては夏本番のような陽気が続いています。今朝は曇天ですが、これから晴れて暑くなるのだとか。この時期の楽しみの一つに紫陽花(あじさい)の花を見ることがあります。

 紫陽花には額の花と言われるものから。花弁がいっぱいのいわゆるアジサイまでいろいろな品種があります。変わり咲きの品種は年々増えているようで時々それを発見すると小さな驚きが生まれます。

 花は人心を操ります。それが癒しに向かうときは喜ばしいことと思います。紫陽花は曇天に照らす光です。色移りするのも面白い。今年もこの花の威力に頼らなくてはならない季節になりました。

いい人もそうではない人も

 一人の生活が続いているとわからなくなることがあるかもしれません。私たちの周りには相性がよい人もそうではない人もいます。そんな中で暮らしていく中で人としての生き方が醸成されるのであってすべてが自分を作る源なのです。

 自分で何でもできるという思い込みを現代社会はもたらす要素をいくつも持っています。確かに孤立がそのまま死に至るということはありません。ただ、どんなに技術革新が進んでも人間が集団生活で生存を続けてきた事実は変えることはできません。群れの中で生きることで他の生物にはできない様々な困難を乗り越えてきたのです。

 距離を置くことが強要されている現状ではその能力は大きな障害を受けています。でも惑わされてはいけない。私たちは人類であることを思い出すべきなのです。

適度な刺激

 人とあまり話さない生活を続けていると、適度な刺激がなくなってしまっている気がします。何かを考える上で不可欠なものが失われているのです。

 あまり社交的ではない私でも最近の事態は極めて異常です。他人との会話の中で考えはまとまっていくのであり、一人で逡巡していても何も進まないのです。会話は大事です。

 無意識に飛び込んでくる人の話も脳の活性化には欠かせません。集団知のようなものをわたしたちは獲得しながら生活をグレードアップしているのです。

 テレビやネットのニュース、ソーシャルメディアの記事や動画はあまり心に響きません。大事なのは自分に対して話されていると感じることであり、自分が主体的に聞き取ったという自覚なのでしょう。

いつ終わる

 深夜に鳴り響いた緊急地震速報のために驚かされ、寝起きが不愉快な朝です。加えて昨日から喉が痛く、風邪を引いてしまったのかもしれません。

 私とほぼ同世代の人がコロナウィルス感染による肺炎で命を落としています。病の自覚があってから数日で重篤化し、場合によっては死に至るという過酷な経過を辿るのだそうです。

 私自身がコロナウィルスの感染歴があるのか。抗体が獲得されているのかは分かりません。突然発病して落命する可能性もあるのです。

 人生に決まった未来はなく、常に偶然の結果で次に進んでいるのはいまに始まったことではありません。ただ、こうした事態に直面すると運命とは何かなどと考えてしまうのです。

言論統制

 中国武漢で発生したと言われる新型肺炎の報道についてはいろいろと考えさせられます。目的は何かによって報道の中身がまったく変わってしまうということを改めて痛感しています。

 発生段階で新型のウイルスであり、大量感染の可能性があるとネットに書き込んでいた武漢の医師は当局でデマ拡散の行為により処罰されていたとのことが報じられています。これが事実ならば予防線を張る機会を人的に奪ったことになり、当局の判断ミスは重大です。デマによる人心の撹乱と、危険察知のどちらが重大かを考えなくてはなりません。中国は言論統制がしやすい政治体制にあることは知られています。ただ、これは共産主義国家でなくても起こりうるケーススタディになります。

 武漢から帰国した邦人に対する報道についてもマスメディアやソーシャルメディアの報じ方について注目すべき点があります。人権と公共の福祉とのバランスをどのように考えるべきか。この問題も臨機応変の判断が求められていきます。

 以前の新型インフルエンザ流行のときにも行き過ぎた報道が問題になりました。私たちは適切なメディアリテラシーと判断力とを持たなくてはならないようです。