日本の現況を批判するときに、悪しき平等主義という考え方がある。それは間違いなのだろうか。
もともと封建社会の長く続いた日本では近代以降、家柄による身分格差というものを忌避してきた。実際には様々な階級制度を内包しながらも建前としての平等があたかも存在するかのように考えられてきた。
機会の平等という大義名分はあっても、高学歴を得るにはそれなりの経済力が必要であり、誰でも能力さえあれば上昇できるというのは幻想に過ぎない。それでも日本人はこの幻想にかけてきた。あるいは騙されてきたという方が正しいのかもしれない。
誰でも努力すれば望みを達成することができるというのは残念ながら非現実的だ。現実はそんなに甘くはない。多くの人は努力しても報われることはない。日本はその確率が比較的高いかもしれないが、あくまで数値上の問題だ。
我が国の基底に流れる考えとして自分だけが得することに対する嫌悪感がある。努力の成果は報酬として欲しいが、それが他人を傷つけるものならばよしとはしない。あくまで公共の福祉が保たれてこその自分の利益だという根強い考えがある。
こうした心性は日本人の財産だと思う。上昇志向の足りなさとと非難する人もいるが、これは島国の国民が培ってきた大切な心のあり方ではないだろうか。
日本経済が振るわないのは才能あるものに正当な報酬を出さず、平凡な人材をいつまでも雇用しているからだという。一見正論に思われるが、平凡な人材を認めうる懐の深い社会の魅力を考えるべきではないか。
平凡といわれる人物が本当に怠慢で業務に支障をきたしているのなら話は別だが、大抵の場合はそこまでではない。業績が形に現れなくても何らかの役割を果たしているのなら、評価すべきだ。短絡的経営者はこの視点がない。
悪しき平等主義という言葉の怪しさは、人々の個性を無視することに近いことにある。できない人と思われても、実は集団の役にたっているのかもしれない。それを考えるべきではないか。