天気予報によるとこれから天気は下り坂で関東では明朝未明から早朝にかけてかなり強く降る可能性があるという。先週もひどい目にあったが明日金曜日は注意しなくてはなるまい。
梅雨前線に南方海上の台風という配置は前回と変わらないが、勢力や距離などの差から前回ほどの大雨にはならないと見込まれている。しかし、いわゆる線状降水帯が形成された場合は危険である。また、地盤自体が弛んでいる場合は雨量が少なくても土砂災害発生の可能性がある。
ぜひ注意をしていただきたい。梅雨の中心はまだ先のはずだ。
日々の思いを言葉にして
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夕刻に地震があった。茨城県南部で震度5弱だったという。地震に対する耐性ができてしまった私にとってはこの規模ならばあまり焦らない。でも、この感性はおかしいのかもしれない。
東日本大震災の前は、震度4からは恐怖のスイッチが入り、5以上になると歴史的大事件の雰囲気が横溢した。それがいまは震度5強くらいからようやく恐怖の対象になるという鈍感さだ。
一つには、町の耐震免震の技術が発達したことがある。震度5弱程度で崩れる建物はない。大きく揺れてもそれを受け止めるシステムができている。
ただこうした慢心が齎す悲劇を考えねばなるまい。私はライフラインが停止した事態をもう一度考えることにする。この地震も何かの教訓にしなくては。
東日本大震災から12年が経過した。12年も経つとかなり記憶が曖昧になっている。それは経年の習いでもあるし、災禍を忘れ去ろうとする本能も関係している。でも忘れてはならないことである。
いわゆる被災地ではない場所に住んでいる私にとってもこの震災は大きなものだった。ちなみに私が住む市内でもこの災害による死者は出ている。しかし、建造物の倒壊は軽微であり、ライフラインも何とか保たれた。福島第1原発の事故による放射能漏洩の恐れが連日報道され、過敏な人は国外に去った。しかし、多くの市民はなにもできず、出資を控えた企業の影響で、公共広告機構ACの啓蒙的なビデオが繰り返し流れたことを覚えている。
地震発生の日は職場から帰れず、翌日からは途中駅までしか鉄道が動かなくなった。それでもパニックも起きず、食料の供給も途絶えなかった。私は当時からブログを毎日書いていたが、そのころの書いた記事を時々読み返している。焦りや怒り、そして根拠は薄いが希望を持つべきだというメッセージを書き連ねていた。
12年経ってその後に起きた他地域での地震や、景気の悪化、政権交代、そして近年のパンデミックなどで震災の印象はかなり薄くなってしまった。しかし、南海トラフ地震の可能性は依然として高く、壊滅的な被害がでるとの予測もある。いざというときに何をすべきなのかをもう一度考えたい。
震災から12年。もしあの時、自分が被災していたらと思うと複雑だ。その日の被害者が12年後に何をしている可能性があったのか。それを思うとその人の可能性が失われたことに大きな悲しみを感じる。そしてその代わりに生きているおのれのことをもう一度考えなくてはならないとつくづく思うのである。
大地震で甚大な被害が出ているトルコを支援することは日本にも利がある。利益のための人助けは日本人が嫌う価値観であるが情けは人のためならずのことわざに従う必要もあると考える。
まずは人道的な意味での支援のリーダーシップを取ることだ。地震国としての日本が災害時には助け合うという精神を世界に広めるにはこの機をおいてない。
次に被災地の情報を収集し、災害時の作業工程を体験し学ぶことだ。我が国には必ず大災害が起きる科学的予知がある。震災は免れないが、被災後の復興の方法を知ることは国益に大いに関係する。
耐震免震の構造物をトルコに建てることも日本の貢献できる方法だ。東日本大震災でも建築物の倒壊は少なかった。この技術を世界に共有するべきである。もちろんビジネスとして行う必要がある。そうでないと長続きしない。
震災の多い先進国は少ない。それにはそれなりの役割があるはずだ。トルコやシリアの支援は日本が存在感を世界に示す機会でもある。不況で苦しい毎日だが、禍のあるときには助け合い、自らの贅沢を慎むべきだろう。
トルコとシリアの大地震の被害が報道されるたびに大きくなっているのは残念というしかない。かなり大きな地震であったことは確かだが、被害を大きくしているのはやはり建築物の工法の問題だと報じられている。
日本のように頻繁に地震がある国だと耐震構造はかなり普及しているようだ。東日本大震災では津波による大規模な被害が発生したが、高層建築物の被害は少なく、ほとんどが被害がなかったか軽微な被害であったという。耐震や免震に対する技術が奏功したと言われている。東京でもかなり揺れたが新宿の高層ビルも、建築途中だったスカイツリーも深刻な被害がなかった。実際に地震が起きないとこうした技術の成果は検証できないのが問題といえばいえる。
トルコの被害状況を映像で見る限り、高層建築が大破しているものが多くみられる。同じく地震国でありながら、建築に関する基準が異なっていたことになる。前にも書いたが免震技術などは積極的に伝えるべきであり、世界に広げるべきものであろう。
地震を止めることはできないが、建造物の倒壊を少なくすることは可能だ。その手伝いを我が国はもっとするべきではないか。
今日18時9分頃、宮城県沖でマグニチュード6.9の地震が発生し。最大震度5強を宮城県で観測した。気象庁によると2011年3月の東日本大震災の余震ということだ。10年経っても余震があるとは実に驚きである。
先月も同規模の地震がありやはり余震とされていた。地震は収束に向かっているのか、それとも新たな大地震の予兆なのかは誰にもわからない。今回は津波注意報まで出た。東北の皆さんには心配であろう。察して余りある。もうそろそろ終わるかと思えばまたぶり返す。日本にとって地震との付き合いは止むことがないのだ。プレートに上に浮かぶ船のような日本列島に生きる以上、これは覚悟しなくてはならない。
常に内心に危機を感じ、突然訪れるかもしれない終末を潜在意識のなかに持ち続ける。これが日本人の心性を形成している。
震災記念日を過ごしたが、10年前本当に不安だったのはそれからの日々だった。福島を始めとする原発や火力の発電設備に支障があり、エネルギー不足に直面したからだ。
街頭が部分的に消され、電車内の照明も間引きされていた。広告用の電球は優先的に外されたようで結果として街は暗くなってしまった。
毎日放射線の量が発表され、それがどの程度深刻なものなのか理解できないまま、小数点以下の変化に一喜一憂していた。
終わらない余震、ソーシャルメディアに出ては消えるデマなど、心を揺らすものは止まらなかった。地震発生後の経過を振り返ることは苦しいが、今後のためにはやっておかなくてはならない気がする。
東日本大震災から今日で10年経ったことになる。震災発生時は職場にいてその日は帰宅できなかった。翌日部分開通した電車で途中まで行き、あとは歩いて帰宅した。東京でもかなりの揺れがあり、近隣で死者が出た。ただ、自宅の家具はほとんど無事で不思議なほどだった。
恐怖はその後にやってきた。福島の原発事故や、各地の発電所の停止による計画停電、ライフライン寸断の脅威などいろいろあった。それらを乗り越えてきたことは考えてみればかなり歴史的なことだった。
そしてパンデミックが起こり、いまに至る。私たちの生きる世界はいつもなにかが起こり、それへの対応が迫られる。この国に住む限り、グローバル時代に生きる限り、この事実からは逃れられない。震災記念日はそれを再認識する一日なのだ。