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咲き急ぐなかれ

近隣のソメイヨシノ

 昨日は気温が下がったが、このところ平年以上の高温傾向にある。ソメイヨシノの東京の標準木はとうに開花しているが、近隣の桜もすでに花が開いている。陽だまりにいるとかなりの暖かさを感じる。雲もなく、穏やかな日曜日になりそうだ。願わくば咲き急ぐことなかれ。

つくし

 アスファルトに囲まれた中でわずかに残る露面に今年も土筆が育っているのを発見した。すでに伸びきって立派な形になっていた。

 この場所はもう何年も前から3月になると土筆が立ち、しばらくすると雑草に覆われ、気がついたときには草刈りされている。使い道もない空間なので放置され続けてきたのだろう。

 実はこの場所はこの後、道路が建設される予定になっている。周辺の家屋のいくつかが取り壊され、予定地である旨の看板が立ちだした。おそらくこの土筆の小景も近い将来見られなくなるはずだ。

観梅

 近隣の公園に観梅に行った。五分か六分といった咲き具合だが、十分に楽しめた。

 毎年訪れる場所だが、ここ数年では人出が多く、なおかつ余裕がある雰囲気がある。コロナ自粛時代が終わりつつあることを表しているかのようだった。

早咲き

 隣市の公園に行ったところ、咲き始めた桜を見つけた。早咲きの種類らしい。カワヅザクラかその亜種のようだった。

 その樹の下には何人もの人たちが足を止め、枝先を見つめていた。言葉を交わす人もいる。まだ寒い日が続いているが、間もなくそれも終わりであろう。ソメイヨシノの咲く頃にはこの樹のことは忘れているだろう。

 早咲きの桜に何か心躍る一時であった。

欅紅葉

 このところ暖かい日々が続いていたが、今週からは冷え込み始めるらしい。すこし足取りを緩めていた季節の進行も紅葉は着実に進んでいる。植物ごとに紅葉の仕方もいろいろあって、それを見比べるのも楽しみの一つだ。私がその中でも注目してしまうのが欅の紅葉である。

 欅は同じ種類でも紅葉の仕方が様々だ。さらに、同じ幹でも枝によって紅葉の仕方がさまざまなのも面白い。赤くなるものもあれば黄色が濃いもの、その中間のものとバリエーションがある。

 なぜこのような複雑な紅葉の仕方をするのかは分からない。日の当たり方とか、枝ごとの遺伝子の違いとか、いろいろ想像するがよく分からない。ただ、単に鑑賞する身としてはこれほど楽しみなものはない。

 紅葉した欅の葉は日に透かすと美しさが際立つ。美しい秋の風景を演出する。このきれいな紅葉も枝を離れて落ち葉になると、急速に干からびて同じような枯葉色になってしまうのも不思議だ。あれほどきれいだったのに、落ち葉としては個性のないものになってしまう。あたかも土にかえるのに余計な色はいらないとでも言っているかのような潔さを感じる。

 今はなき卒業した中学校の校章が欅の葉をデザインしたものだった。表参道の欅並木からとったという説明を聞いたことがある。その時は欅がかくも美しいものだとは気がつかなかった。紅葉の美しさを知るには自分も歳を重ねなければならないのかもしれない。

イヌタデ

 イヌタデはこの辺りではどこでも見られる野草で、いわゆる雑草と呼ばれる類の植物である。赤紫の花が印象的で赤のまんまともいわれる。俳句の季語としては秋季で、確かに今、写真のような房状の花があちらこちらで見られる。

 この花はよく見るととても美しい。花の色彩がいかにも秋の野を彩るのにふさわしい感じがする。実は夏からも咲いていたのだが、そのころはほかの色鮮やかな花に紛れて目立たない。秋になって風景が落ち着いてくると目立ってくる気がする。

 イヌと名がつくものの多くは、まがい物とか品落ちるものといった意味がある。イヌタデも本当の蓼より劣るものという意味だ。蓼というのは植物学上はヤナギタデというそうで葉に辛みがあることから薬味として使われてきた。イヌタデはそれに姿が似ながら辛みがなく役に立たないという意味の命名らしい。食用には向かなくてもこの「雑草」は秋の野を彩るものとして大切にしたいものである。

たわわ

みかん

 以前も書いた隣家の蜜柑の木が豊作の果樹のために大きく撓んでいる。中には地面に付きそうな枝まである。

 道に面したこの木は手を伸ばせば誰でも取ることができる。にもかかわらず誰も手を付けず、鳥たちも餌にしていない。まるでもう少し甘くなるのを待っているかのようだ。

 木には言葉がないのでこの状態をどう考えているのか分からない。実の中に仕込まれた種を遠くの適地に運ばれることを期待しているのだろうか。多大なエネルギーを消費して自らの生命を危険にさらしてまで結実させようとする命の営みに感服する。

オミナエシ

 万葉集にも秋の七種として数えられているオミナエシは、秋の風景の基本的な色合いを見せる。原風景の中にある野草だ。

 ところが私のすみかの周囲からはほとんど見えない。黄色い花はあるがその多くが外来種だ。中にはブタクサのような厄介なものも含まれている。オミナエシは繁殖において劣勢らしく私の生活圏から消えつつあるということだ。

 オミナエシには女郎花という漢字が当てられる。ここでいう女郎はお嬢様というくらいの意味だろう。万葉時代から優美な女性の姿にたとえられている。そう思うと愛おしくも感じる。

 外来種による植生の変化には人間の歴史が大きく関与している。今見る風景も今後はどうなるか分からない。オミナエシの咲く風景が古典の風景であることは伝えていかなくてはならないことなのだろう。

ハナミズキの実

赤い実

 よく通る道の街路樹が紅葉し始めた。赤い実をたくさんつけている。晩春初夏の頃、白や桃色の花で華やかだったハナミズキが結実したのだ。

 花とは色が違うが実もかなり人目を引きつける鮮やかさがある。この目立つ実は残念ながら食用にはならないようだ。ただし小鳥たちにとっては冬に向かう前の栄養源の一つらしい。味覚が違うのだろうか。

 ところで、私が見たハナミズキの実は今のところ鳥からはまったく見向きもされていない。ほぼ無傷で樹上にある。あるいはまだ熟していないのだろうか。やがて落葉して実だけが残るようになると、鳥がついばみ始める。その時を待っているのかもしれない。

蜜柑色づく

 急に寒くなり、冷たい雨も降って驚く身体を如何に御していくか。大事な局面である。マスクを外していいと言われても、別のウイルスも心配になる。そんな微かな不安をしばし忘れさせてくれる風景に出会った。

 通勤途上の道に植えられている蜜柑の木に鈴生りに実っている蜜柑が色づき始めているのを見つけた。毎年なるのだが今年は特に豊作のようだ。誰の所有物なのか分からず、持ち主も摘果しないので大抵カラスたちのごちそうになるのだが、今年はカラスだけでは処理できないかもしれない。

 すぐ近くにゴミの集積所があるので、それこそカラスか何かがあさってこぼれた中に蜜柑の種があり、それが育ったのだというストーリーを考えてみた。やや無理があるけれども。

 この蜜柑の立っている位置は道路の建設予定地の近くであり、今後の運命は分からない。まだやったことはないが、一度くらい蜜柑泥棒をしてみようか。