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時間のメリハリ

 学習するときの時間の使い方は区別すべきだ。目的が学ぶ過程にあるのか結果にあるのかをまず峻別しよう。

 一生懸命やれば結果が出るとは私たちが根拠なく信じてきたことだ。恐らくそれは間違っていない。ただこれには条件があって、制限時間が短く設定されていないことだ。長く根気強く続けていればてきるようになることがある。趣味のことやライフワークといったものはこれに属する。長く細くいつまでも続ける学習法が適している。

 対して時間制限があるもの、期限が限られているものは時間の使い方が異なる。結果を求められる場合、極論を言えば正解さえ分かればいいのだ。できるだけ効率的になおかつ再現性が高い方法が見つかればなおいい。こうした種の学習は学校で教えることの大半が含まれる。本当はそれではいけないと思うが現実がそうなのだ。

 結果が求められるものの学習方法は時間の割り切りが必要だ。普段からある程度の制限時間を設けその中で学ぶことが必要なのだろう。教員の役割はそれを個々人の理解度に応じて調節し提案することだろう。

 私自身もこの二つの時間の使い方を意識する必要を感じでいる。だが、しばしばこれを取り違える。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

彗星

 北の空に周期がかなり長い彗星が接近しているという。今日最接近というがあいにく曇り空だ。

 5万年という周期は人間にとってはとてつもなく長い。5万年前にはネアンデルタール人がまだ活動していた。ホモサピエンスはようやくアフリカからの壮大な旅に出た頃だ。

5万年後に今の人類が地球に存在している可能性はどのくらいだろうか。環境破壊か戦争で自滅してしまう可能性がある。あるいは自ら作り出したAIに支配されて無力になった末に絶滅する可能性もある。種として5万年の持続は何もなくても難しい。そんな生き物にとっては長すぎる時間も、天体の運動にとってはほんの一瞬なのかもしれない。

 夜空を眺めると広大な宇宙と人生の小ささを痛感する。彗星はそのきっかけの一つだ。

第三希望

 時々思い出してはとらわれてしまう感慨がある。今自分がやっていることは本当にやりたいことではなかった。第二希望ですらないと。せんなき思いが心をしばりつける。

 詳しく言えば第三希望でもない今の状態を嘆くのはたやすい。人生は上手く行かず残酷でさえある。ネガティブな思考は下に伸びる螺旋階段を進み始めてしまう。そんなときは無理にでも思考のあり方を変えるしかない。

 科学の理論によれば世界は絶えず分岐して様々なな世界が存在する可能性があるという。理屈では分かるが納得はできない考え方だ。でも、仮にそうだとすればもしかしたら別の世界には第一志望を叶えた自分が生きているかもしれない。

 彼が本当に幸せだろうか。満足度の高い日々を過ごしているのだろうか。その可能性もあるが、正反対のことも考えられる。それを選んだために起きる悲劇があるのかもしれない。第二希望を叶えた自分もそうだ。何があるのか分からない。

 第n希望を生きる今の自分がまったく不幸かと言えばそうではないことは確かだ。何がよくて悪いかなど分かりはしない。できるのはいまの第n希望の人生を精一杯生きるしかないのだ。

 こういう思考のループをしているうちに降りる駅が来る。やらなくてはならない仕事が締め切りを迎える。どうしようもない私を頼りにしてくれる人がいる。ここで迷いは一旦隠れる。また思い出すまで。

点の風景

May I have the time?

 仮に時間を往来できるものとして過去のある時点に突然移動したとしたらどう思うだろう。かなりの寝不足のまま乗り込んだ長距離移動の電車内で妄想を始めている。

 面倒な想定を重ねることを避けるために、移動した時点で自分自身は移動することはできず、移動先の人やモノとの交渉はできないのものとする。そういう小説を読んだ気がするが、それとは違ってあくまで無作為にタイムスリップすることにする。

 飛んでいった先の風景はどう見えるだろう。過去の世界はどうだろう。例えば昭和の高度成長期の街の風景はたくましくもかなり危ういものに映るはずだ。その先の展開を知っている者にとって過去の風景に飛び込むのは覚悟がいる。懐かしい風俗、流行の言葉、今はなき道具など心惹かれるものであふれているはずだが。携帯、スマホのない時代はもう一度見てみたい気もする。

 未来に飛んだ場合はどうだろう。もしかしたら自分の死後の世界かも知れない。驚くべき光景が展開されている。手持ちの価値観では許されない行動、似ているが意味の違う言葉、不思議な人間関係など様々想像してしまう。未来は経験したことがないので、よいふうにも悪いふうにも妄想の幅が振れる。そしてきっと最後に思う。この世界に私はいないのだと。

 未来はやめよう。行くなら過去だ。それも大昔がいい。世界史で学んだことを実見するのはどうだろう。そういうのは大抵乱暴だから、何もない日常に飛ぶのがいい。止めたいのは最近の過去だ。やり直したいのにやり直せない。こんな地獄はない。

 くだらないことを考えていたら乗り換え駅だ。少し眠気も冷めた。車内の人は相変わらずスマホに操られている。私も駄文を書くのにスクリーンを擦り続けている。他の時代から来た人が混ざっていたら伺いたい。私たち変でしょう? と。

10月

 昨日から10月が始まった。年度後半ということになる。日本では4月が年度の始まりだからだ。

 聞くところによるとOctoberは8番目の月という意味なのだそうだ。古代ローマでは3月に当たる月から一年が始まり、一年は10か月だったという。時間の基準というものは時代により、権力により変わってしまうものなのだ。

 私にとっては10月は通過点にすぎない。ただ、なにがしかの時間の折り目として区分を意識することもある。ちょっとした緊張感を得られたならば、それなりの意味はあるだろう。

思い出

 過去の出来事が突然浮かび上がることがあります。恐らく何らかのきっかけがあるのでしょう。それが説明できるときもあるのですが、多くの場合なぜそれを思い出したのかわからないようです。

 こどもの頃はいろいろな予感もありました。これはこの先に何かが起きる予兆ではないかと。それが当たったことも当たらなかったこともありますが、なぜか当たった方を覚えているのです。まるで自分が未来から過去に戻って人生をやり直しているように感じたこともあります。

 それに比べれば最近の自分は未来も過去もあまり思い出せない。冷静になったといえばそれまでなのですが、自由で柔軟な発想ができなくなっているともいえるのかもしれません。思い出をよみがえらせることにも体力や気力がいると感じています。

陽光

 少しずつではありますが日照時間が伸びています。季節の変化を感じるのはやはり光の量と質です。

 鉢植えの四季咲きのなでしこに蕾がついているのを見つけました。いくらなんでも早すぎると思うのですが、植物にとっては暖かい冬であることが影響しているのかもしれません。

 私と言えば最近使っていなかったソーラー腕時計に光を浴びせることに腐心しています。時計を窓際に干すというなんとも不思議なことをやっています。

贈答禁止の余波

職場で贈答品授受の禁止が通達されました。関電の事件が影響したもので、企業側から自主的に送られたものについても断り、返品することが求められるようになりました。

 趣旨自体はよいことであり、遵守すべきだと感じています。贈答のためのコストを商品そのものに反映させた方がよいのに決まっているからです。

 ただ、少しだけ困ったことがあります。毎年楽しみにしていたきれいな写真のカレンダーやちょっと重いけれども十分に使える企業名入りの手帳などもまた禁止されてしまったことです。旅行会社のものはかなり使いやすいものでしたので残念です。

 カレンダーや手帳についてはいわゆるバレットジャーナルを始めたためにほとんど必要がなくなり、カレンダーは百均にいいものがあることを知りました。当面は問題なく過ごせそうです。ただなくなるとちょっとさびしくなる。これからこういう感情を持つことが増えそうです。

時間の平面化

 手帳を更新する季節になりました。かつては歴史手帳を愛用し、その後産能の手帳を使うようになっていた私ですが、いまはただのリングノートと、ネット上のグーグルカレンダーとを利用しています。どのような形であれ、私がやろうとしているのは形なきものの可視化です。

 時間の流れを可視化するのは手帳の大きな役割といえます。実は切れ目なく流れていくだけの時間に切れ目を入れ、価値を見出していくのは人間の叡智です。それを実際に紙面に記号化していくのが手帳の役割といえます。

 丸印や矢印には時間に価値を与える意味が込められています。略図を付けたり色づけすることでその意味は一層顕著になります。複雑な現実を極力単純にするのが手帳の役割であり、その中で整理がなされる訳です。手帳をつける理由は時間の平面化という変換にあるわけです。

 ただ、手帳を書くという行為自体が時間の流れの中で行われるために、その行為自体がエントロピーの増大に晒されてしまう。単純化が目的だったことを忘れて次々につけたしを始めてしまうのです。手帳をつけることは常に時間軸から抜け出そうとする行為なのかもしれません。