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矛盾を教える

 人間のできることの最高値は矛盾を教えることだと考える。理屈ではおかしくても経験上、文化的にこうでなくてはならないということはいくらでもある。それらを簡単に因襲のごとく囲い込もうとしてもうまくいかない。

 私たちのできる最大にして最良の方法は、この論理矛盾を受け入れる度量を持つことである。うまく説明はできないが確かにそうだ、ということはいくらでもある。その現実を踏まえるべきなのだ。

 効率を重視しすぎるシステムではこの論理矛盾が挟み込まれる余裕がない。だから最適解を提示しても実現不可能ということが多い。辻褄は合わないがこうすることがよいということは人間しかできない指導法だ。私はそういうことができるようになりたい。

ミニチュア

 子どもの頃、鉄道模型や帆船模型などに興味が惹かれた。大きなものを俯瞰することができることに素朴な喜びを覚えた。いまでも偶然それらに出会うと懐かしい誘惑にかられる。

 最近、電車の車窓から見える風景がミニチュアのように感じることがある。紛れもない現実の風景をそう感じるのはなぜなのか。

 一つの考えとして私の脳の状態という要因がある。現実をひとかたまりに分節して、それを単位に捉えるあまりに現実をありのままに受け入れられないようになっているのではないだろうか。

 これは加齢も関係があるかもしれない。過去の経験に頼り過ぎるとものを模型のように感じるのか。いろいろな他の可能性も考えつつ自分の認知行動の変化を説明しようとしている。

水はね

 雨の日に気になることの一つに走行する車の近くを歩くときの水はねがある。何度も被害にあったことがあるので、雨の日は色の薄い服は着ない。この水はねは実は道路交通法違反で罰金が規定されている。

 車から水はねの被害を受け、因果関係が証明されると普通車では6,000円の罰金ということだ。実際には証拠を残すことが難しいため、泣き寝入りになることが大半というが、街中に防犯カメラがありカメラ付きスマートフォンが普及したいまでは証拠写真や動画か撮られている可能性は高い。それ以前に道義的問題として考えるべきだ。

 JAFの実験によると、時速40kmで水溜りを通過すると身長の高さの飛沫がタイヤから2m位まで飛ぶという。時速20kmでも下半身を濡らす水はねは起きる。時速10kmまで落とすとほとんどはねないということだ。もちろん水溜りの状態や道路の形状、車種などによって状況は変わるはずだ。

 一番厄介なのは水溜りが運転手から予測できない場所にあることで、この場合減速しないで走ってくる。おおきな飛沫を上げることになる。

 歩行者としてはよく水はねが起こる場所を把握して車が接近しているときには近づかないことが肝要だ。運転者はまとまった雨が降っていて歩行者を見かけたら念のため減速する配慮がいる。道路設置者には水はけの悪い場所を改善するか警告の表示を施すことをお願いしたい。

疲労

 このところ疲労感が激しい。恐らくは天候不順のためなのだろう。気晴らしすることが少なくなっていることも関係ありそうだ。考えすぎないこと、なるようにしかならないと思うこと。この精神を再確認することにしよう。

脱ルーティン

 私は日常の大半を既定の習慣でこなしている。いちいち考えなくてもいいからだ。どこに財布を入れるのか、電車の時刻、車両、立ち位置もほぼ決めている。習慣化の恩恵は大きい。

 ただしこの方法だと臨時の対応ができなくなることがある。普段とは違う行動をしなくてはならないときに立ちゆかなくなる。これも困ったことだ。私には定期的にこの失敗があり、そのつど狼狽している。

 ルーティンだけでもだめで臨機応変の事態も対処できるようにしなくてはならない。そのためにも労力や金銭のコストをかけてもいつもとは違うことを敢えてする日を作らなくてはと考えている。木曜日はいつもと違う道を歩くなどから始めている。これも大きなルーティンといえばそれまでだが冒険の木曜日とでも銘打てば少しは脳の活性化に役立つだろう。

 木曜か金曜のブログにご注目あれ。

疲労

 昨日体力を使うことがあり、かなり疲労してしまった。ただ、改めて思うのは肉体の疲労は時間をかければ回復するということだ。日常の精神的な疲労は、肉体疲労に比べればはるかに分かりにくいが、回復するのには相当な時間がかかる。どちらが厄介なのかは明らかだ。

 日常から逃れることができたならと考える思考は昔からあった。それが祈りになり、宗教にもなった。ただ、生きていながら脱日常はかなり難しい。そこで折り合いをつけるしかなくなるのだ。

 考えてみれば、肉体的に疲れることは日常を生き抜くための手段なのかもしれない。必ず回復することを体感することで精神的にも救われるのだから。

満員電車の乗り方

 4月も半ばを過ぎて新年度の生活にもかなり慣れ始めた頃であろう。コロナ制限が解除され、元の生活が戻りつつあるのはうれしいことだ。ただ、困ったことも戻ってきた。満員電車である。

 満員電車はリモートワークが推奨された期間は一時なりを潜めていた。それがリモートでは仕事が捗らないという体験から、徐々になくなり始めた。そして元の過密空間が戻ったのである。

 満員電車に乗るためには降りるまでの行動を予め理解しておくことが必要だ。私のように終点前の駅で降りる場合、特に注意がいる。まずは降りられる位置に立つことだ。

 ドアの前に立ってはならない。乗降の妨害になるし、場合によっては、新たに乗り込む人たちに押されて降りにくい位置に流される。だから、少し入った座席前の吊り革を確保したい。理想的には入り口から2〜3個目がよぃ。可能ならばドアから見て進行方向とは反対の、つまり後ろ側がよい。こうすると停車前のブレーキで慣性の法則と戦わなくてよくなる。

 降りるときは一声、降りますとつぶやくといい。満員電車の乗客には一種の連帯感が生まれやすいので協力してくれる。ただイヤフォンで外界との連絡を絶っていたり、スマホに魂を売り渡している輩には通用しないので、軽く押すしかない。

 この要領を心得ていないと降りたい駅で降りられないこともある。降りられなかったら、正直に上司なり教員なりに事情を話すべきだ。いまの時勢ならは許してくれるはずだ。ただし一度だけであろうが。

 数年分の満員電車未経験者が今は狼狽している。案ずることはない。すぐに馴れる。そして来年の春、満員電車デビューの人たちを哀れむことになる。

みんなマスクをしています

 今日は翻訳ソフトを使って読んでいる方にも誤解なく伝えるために易しい日本語で書くことにした。

 日本の政府の方針で昨日からは多くの場所でマスクをつけなくてよくなった。これまではほとんどの場所でマスクをつける義務があった。これを怠ると、その施設の従業員から注意をされることもあった。それがなくなったのだ。

 2020年ごろ、日本ではコロナウイルスに感染する人は他国と比較すると極めて少なかった。それが、2022年ごろからは感染者数が増えていった。日本人はマスクをつけ続けていた。ワクチン接種する人の割合は国際比較すれば恐らく高かっただろう。しかし、感染者は増え続けてしまった。だから多くの国民はマスクをつけ続けた。理由はよく分からないが、つけている方が安心と言われていた。その結果、ちょっとした問題も起きた。マスクをしていない人への行き過ぎた叱責だ。

 日本人がマスクをつけ続けたのにはいくつかの要因がある。その一つが厳しい自主規制である。法的に刑罰の対象になることはないが、マスクを着けていないという理由で注意されるという場所はかなり多かった。それは国民性の影響もある。

 日本人は周囲との調和を重んじる。だから、自分だけ他人とは違うことをすることは避けようとする。自己の主義を貫くことはしばしばわがままとされるのだ。だから、マスクは明らかに要らない場所でも外すことはない。昨日近くを歩いた公園でマスクを着けていないのは幼い子どもだけだった。

 もちろんこの時期にマスクをする理由はコロナウイルスだけではない。大量に植林されたスギやヒノキの花粉が飛散してアレルギー反応をもたらす。学者によっては日本人の大半がこの手のアレルギーを起こしやすい遺伝子を持っているらしい。だから、マスクを外すのはこのピークが終わる来月ごろからという人が多いはずだ。私もその一人だ。

 日本に訪れる方やニュースなどで日本の街角の映像が放映されるのを見た方はいまだマスクの集団が大半であることを不思議に思うかもしれない。だが、このような事情があるからであり、危険な訳ではない。念のため不織布マスクを一つ鞄に入れておくといい。何かと役に立つだろう。

離れる

 時々は少し離れたところに行ってみることが大事なのかもしれない。日常の枠組みの中にどっぷりとつかっていると、世界はどんどん狭くなり窮屈に思えてしまう。それは錯覚なのだろう。

 現実世界は窮屈でもなければ閑散としてもいない。ちょっと離れてみればそれが分かるかもしれないのだ。私たちはそのことを思い出す必要がある。当たり前だがすぐに忘れてしまう。

 離れるために何をすればいいのかを考えよう。ただ、戻ってくることも忘れてはなるまい。逃げるのではなく離れるのだ、