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応援の仕方

 球場に歓声が戻ったのは大変うれしいことだ。WBCの中継では久しぶりに声を出しての応援風景も見られた。鳴り物入りの応援は日本の野球の特徴であり、野球の魅力の一つになっている。

 ただ、私たちは無観客試合の中継を通して打球音や、選手たちが味方に檄をとばす声などを聞いてしまった。それは野球のもう一つの魅力を思い出させてくれた。このスポーツはかなり大きな音がするスポーツであり、またチームワークが大切でかなりメンタルな面が強いということを。

 実際に野球をしている人ならばこのことは知っているはずだ。ただこれまでテレビを通してしか試合を見たことがない多くの人たちにとって、選手の声を直接聞いたり、グラブに吸い込まれるボールの音などは知りようもなかったはずだ。

 華やかな応援と打球や捕球の音を聞く楽しみはどのように共存できるだろうか。私は新たな応援スタイルが生まれることを期待している。それは投手が投球モーションに入ったら鳴り物をとめることだ。ボールがミットに入るか打ち返されたらまた盛大に応援すればいい。

 このスタイルが定着すれば野球はもっと魅力的になる。応援する人は常に選手の動きを見ていなくてはならないし、ともに試合を盛り上げるという自覚が必要になる。単なる自己満足ではなく、選手の気持ちを盛り上げる真の応援になるはずだ。プロ野球でそれができればアマチュアの試合も変わるはずだし、海外でも模倣するリーグが現れるかもしれない。

哲学の重み

 翻訳アプリの精度が上がってきたので非英語の外国ブログを読むことが増えている。最近はスペイン語とアラビア語のブログを読んだ。さすがに機械翻訳の限界と思われる不自然な訳もあり、完全には理解できないが、それでも概要は想像することができる水準までにはなっている。

 それらのブログを読んでいて思うのは哲学の知識がかなりふんだんに使われているということだ。西洋や中東の人々はどうも哲学的な話をするのが好きらしい。自分たちの考え方の尺度、もしくは基準として先哲の考えを引用しながら論を展開することが多いように思える。

 日本の思想家の多くは西洋哲学を熟知しながらも、どこかで日本なり東洋なりの思想背景を感じさせる何かがある。それは自然を包み込むような包容力のようなものかもしれない。西洋の場合は異論に関しては絶対に許さないという感覚がある。こうした違いがブログのレベルでもうかがえるのは面白い。

 私の記事はそこまで深く考えられていないのは恥ずかしい限りだ。せめて日本らしいものの考え方を分かりやすく示せればと考えている。

みんなマスクをしています

 今日は翻訳ソフトを使って読んでいる方にも誤解なく伝えるために易しい日本語で書くことにした。

 日本の政府の方針で昨日からは多くの場所でマスクをつけなくてよくなった。これまではほとんどの場所でマスクをつける義務があった。これを怠ると、その施設の従業員から注意をされることもあった。それがなくなったのだ。

 2020年ごろ、日本ではコロナウイルスに感染する人は他国と比較すると極めて少なかった。それが、2022年ごろからは感染者数が増えていった。日本人はマスクをつけ続けていた。ワクチン接種する人の割合は国際比較すれば恐らく高かっただろう。しかし、感染者は増え続けてしまった。だから多くの国民はマスクをつけ続けた。理由はよく分からないが、つけている方が安心と言われていた。その結果、ちょっとした問題も起きた。マスクをしていない人への行き過ぎた叱責だ。

 日本人がマスクをつけ続けたのにはいくつかの要因がある。その一つが厳しい自主規制である。法的に刑罰の対象になることはないが、マスクを着けていないという理由で注意されるという場所はかなり多かった。それは国民性の影響もある。

 日本人は周囲との調和を重んじる。だから、自分だけ他人とは違うことをすることは避けようとする。自己の主義を貫くことはしばしばわがままとされるのだ。だから、マスクは明らかに要らない場所でも外すことはない。昨日近くを歩いた公園でマスクを着けていないのは幼い子どもだけだった。

 もちろんこの時期にマスクをする理由はコロナウイルスだけではない。大量に植林されたスギやヒノキの花粉が飛散してアレルギー反応をもたらす。学者によっては日本人の大半がこの手のアレルギーを起こしやすい遺伝子を持っているらしい。だから、マスクを外すのはこのピークが終わる来月ごろからという人が多いはずだ。私もその一人だ。

 日本に訪れる方やニュースなどで日本の街角の映像が放映されるのを見た方はいまだマスクの集団が大半であることを不思議に思うかもしれない。だが、このような事情があるからであり、危険な訳ではない。念のため不織布マスクを一つ鞄に入れておくといい。何かと役に立つだろう。

話の展開

 あまりに忙しい毎日に慣れすぎてしまっているのか、現代人はゆったりとした展開の話をつまらないと感じる人が増えているように思う。

 韓流や華流ドラマを見始めた頃には筋の飛躍や人物設定の荒さについていけなかった。しかし、これに慣れると今度は日本や欧州の一部の映画などに見られる心理描写を丹念に行うストーリーがまどろっこしいと感じることがある。要するに、とまとめたくなってしまう。これは芸術の鑑賞としては残念なことなのかもしれない。

 明快なストーリーは娯楽作品ならばいい。でも、作品を通して人間とは何かを考えるにはやはりそれなりの順序と手順がいる。それを無視すると世界はかなり単調なものとなる。

 話の展開をじっくりと楽しむには受け手側の解釈力も要求される。そういう作品は理解されない可能性もあるので作られなくなっていくのだろう。でもかつての漫画の世界のような明快さばかりで奥深さにかける作品ばかりがもてはやされる現象はあまりいいものとは思えない。

人形

雛人形の写真

 新暦の3月3日はまだ寒い。今日は寒の戻りともいえるような寒さであり、特にその感が強い。旧暦の3月3日は今年の場合は4月22日にあたり、春の印象は随分違う。もともとは古代中国の行事である上巳に端を発し、日本で独自の発展をした3月3日の行事は今ではひな祭りとされている。人形の祭りである。

 この人形はもともと罪や穢れをそれに移して自分の身代わりとなり日常から追放されるものであった。流しびなの習慣は現在でも鳥取県などで見られるようだ。この日の行事ではないが、紙など作った人形に息を吹きかけたり、体をこすったりしたものを川に流すという行事は各地にみられる。かつては川は異界につながる道であったようだ。

 人形はかわいく愛らしいものであるとともに、どこか恐ろし気な話もあるのはこの罪穢れの請負役という側面があるからだろう。雛人形を行事後すぐに片づけようとするのも、この禊や祓の伝統がどこかで影響しているはずだ。

 罪や穢れがあたかも誇りのように体に付着し、なおかつそれを簡単に拭い去ることができると考えていた価値観は非常に楽天的なものであるが、つねに身を清めようとする考え方は現代人にも参考になるものであろう。人形には負いきれないさまざまな日常の罪や穢れを私たちはどうすればいいのだろう。雛人形の端正な面持ちが逆に私たちに問いかけてくるような気がしている。

ピッチクロック

 アメリカのプロ野球、MLBでピッチクロックというルールが加わった。これは投手がボールを受け取ってから走者がいないときは15秒以内に投球しなくてはならないというものだ。時間短縮とテレビ等での視聴者拡大のために導入されたようだが、いまのところ改悪のように思える。

 野球が時間がかかるスポーツだということはかつてから言われてきた。ほかの団体球技と違って試合時間の大枠が決まっていないため終了時間が読めない。だから、放送メディアにとっては厄介で扱いにくかった。サッカーやバスケットボールなどある程度終了時間が読めるスポーツにはそれがない。

 投手がボールを受け取ってから、捕手から送られるサインを確認し、自分の意見と照合して投球する。場合によっては気の短い打者をじらす方法をとるため、捕手が待てのサインを出すこともあるそうだ。これで時間が使われる。野球が好きな人はこの駆け引きも含めて楽しむことができる。相撲でいう立ち合いの駆け引きだ。わずかな間を使って相手の調子を狂わす。

 打者もそうだ。わざとゆっくりと打席に入ることで投手の調子を狂わせる。今回のルールでは8秒という制限が設けられ、プレシーズンマッチで遅延行為のため三振という例がすでに生まれているという。だから打者側からの駆け引きも限られてくる。

 ルール変更があるならば、過去はよかったなどと言っていられない。高校野球のようにテンポのいい試合にも私たちは慣れているので、プロがこの方法をとっても違和感はない。ただ、チームが考え、観客に考えさせる戦略的なスポーツである野球の醍醐味が減少したことには間違いない。もっと頭の回転を速くする必要があると言われればそれまでだが、情報処理優先病はこういうところまで侵食してきているのかと考えてしまう。

 むしろ、チームによる作戦を遂行する際に監督の指示をいちいち伝達することはできなくなるかもしれない。フィールドに立っている選手が即座に判断し、次のプレーを決めなくてはならなくなる。組織の在り方が変わる可能性もある。

 コロナの影響で制限されていた様々なことが変わったスポーツ界であるが、これもその一つなのかもしれない。日本のプロ野球でも早晩これに習うことは明らかであり、これから野球選手になりたい皆さんには指示待ちではなく、自主的な思考が必要になると考えていただきたい。

短歌の解釈

 短歌は短詩形のため盛り込まれる情報量が少ない。さらに歌自体が暗唱しやすく、記憶に残りやすいため、様々な享受の仕方が生まれる可能性がある。それがこの文学の特徴であり、可能性でもある。

 いわゆる歌物語というジャンルは一首の歌の成立事情を短いストーリーにしたものである。中には古歌を扱うものがある。実際の歌が作られた状況とは必ずしも一致しているとは限らない。歌を作った人は(もしくは集団は)必ずいたはずだが、その記憶が途絶えて歌だけが残り、後世の人が新たに歌の生まれたエピソードを考えて作るということがある。これが歌物語の本質なのかもしれない。

 現代でもそのようなことはある。ある作品が読者によってどのように読まれるのかは様々であり、それが事実であるかどうか怪しくなっていることもある。また新たな解釈がオリジナルの成立事情を覆い隠すことさえある。和歌だけではなく、流行歌もそのように解釈される。

 ならば、逆に歌は自由に解釈できる文学と考えて新たな可能性を考えることもできる。文学的世界は決して作者だけが作るものではない。読者もまた、その世界形成の一員であるということになる。この視点はこれまで多くの研究者によって唱えられているが、高度情報社会においては作品世界の共有と改変のスピードが飛躍的に早まった。新たな文学のありかたを考えるべきなのだろう。

宇宙で人生を描く

 松本零士さんが逝去されたと報じられた。心よりお悔やみ申し上げます。私の世代は松本作品から多大なる影響を受けている。

 宇宙戦艦ヤマトは企画作品であったようで、松本零士の世界そのものではないという。ただ、人物設定や容姿についてはほぼ個人の提案が通っていたという。銀河鉄道999や宇宙海賊キャプテンハーロックなどは母性愛や友情、さらには文明批判の要素があって興味深いものだった。もっともそのメッセージは子どもには分かりにくいところもあり、宇宙を舞台としながらも、実は日常の人間ドラマを描いているのである。

 初期の作品などはさらに生活感が強く感じる。その生活臭をSFの殻を被せて客観視できるようにしたのが松本零士作品の魅力であろう。また読み直してみたくなった。

みんなで支える

 日本のアドバンテージを考えるとみんなで支えるという考え方に親和性が高いということではないか。現代人はかなり利己的だが、それでも仲間に対する思いやりには長けている。これは人種とか地域性とかではなく仲間と認めたものに対する気持ちだ。

 これは同時に仲間でないものを斥ける排他性と表裏一体である。中根千枝氏の先駆的研究が指摘する通り、他所者に対する冷たさは日本人のもう一つの側面だ。この事実を忘れてはならない。我々は仲間としないものにはかなり手厳しい。理論的に反目しているならばよいが理由なく相手を認めないことも普通に行われる。

 民族論者ではないがこうした国民性を活かすことも考えるべきことだろう。仲間に対する優しさと仲間でないものに対する冷淡さはいかにして活用すべきだろうか。様々な答えが考えられる。

 結果としてみんなのために貢献できる国民性は地球市民としては益となる。つまりは地球市民という概念を獲得することが日本人の強みになる可能性があると感じている。遠い目標だが、達成不可能ではなさそうな気がする。それが日本人のポテンシャルだろう。

和食

 よく和食ほ健康にいいと言われる。概ね正解のようだが、それだけでもないらしい。最近は高齢者も積極的に肉を摂るべきであり、和食だけでは健康年齢を伸ばせないと言われている。西洋的な食事だけならばよくないが、和食だけでもよろしくないということなのだ。

 思えば和食とは日本の文化の反映だ。日本文化は時代とともに海外の良いものを取り入れ、独自にアレンジしてきた。平安時代の食事と現在のそれは全く異なる。だから、時代の要請に基づいて新しい調理方法や素材を用いることは和食の伝統にもなりうるのだ。これこそが和食であり、それ以外にはないという考え方はJapanese Styleの本質ではない。懐の深さこそが日本文化なのだから。

 だから、いわゆる和食にこだわり、海外の食生活を忌避したり、逆に和食の欠点を論いその本質を考えないのは的を射ていないということになる。これからどんな和食が誕生するのかそれが楽しみである。