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戦争文学

 戦争文学を読むときその目的が私の中でかなり変化してきていることに気づく。それは自分と戦争との距離が離れ続けていることと関係している。

 かつて戦争文学は史実の記録の一つとして読んでいた。いかに悲惨なことが行われていたかを参戦した人の実録として読んだ。史料や映像では伝えられない出来事や心情を残すものとして扱った。

 それがいつの間にかそうした史実に対する関心よりも、限界状況における人間のあり方を語る文学として捉えるようになっている。両者は似て非なる捉え方だ。戦争を限界状況を提示する設定の一つとしてしか捉えていないことになる。

 経験していないことを語るのは難しい。身近に戦争体験者がいれば少しずつその経験を共有することもできるかもしれない。ただそれも難しくなりつつある。

 戦争が単なる歴史上の事項として受け取られる時代に、何ができるのだろうか。私自身の問題としては若い頃に読んだ驚きや恐怖を読み取ることに遠慮をしないことだと考えている。

755km

 モスクワとキーウの直線距離は755kmだという。実際には直線移動はできないため、陸路だと900kmを超えるらしい。この直線距離を東京を起点に考えると、北海道の美唄市や福岡県の宗像市辺りになる。つまり日本の国土に半分に収まる距離しかない。

 人が移動するのには遠いが最新兵器なら机上の操作で標的にほぼ命中できる距離であることを再認識する。この戦争は極めて近い場所で行われているのだ。メルカトル図法の錯覚で考えるのは危険ということになる。

 思ったよりはるかに長引いてるこの戦争をどうしたら終わらせることができるのだろう。武器をウクライナに供与しても、ウクライナが負けないことは支援できても戦争を終わらせることはできない。このまま続けても両国にとって不利益である。

 隣国との関係を大切にしなくてはならないのは我が国も同じだ。小異に拘り本質を失うと全て帰り奪われることを知らねばなるまい。相手を知り、折り合いをつけるチカラを多方面から考えていくべきだ。

誤爆なのか

 ロシアのミサイルがポーランドの領土に着弾し、死者が出たという報道が流れた。NATOの同盟国への攻撃ならば戦局が拡大してしまう。冷静に対処していただきたい。

 いろいろな可能性を今の時点では考えるべきだ。意図的にポーランドを狙うことは今のロシアの国情からは考えにくい。ミサイルの不具合だろうか。もしかしたらウクライナの放った防御ミサイルかもしれないし、その両方かもしれない。ハイテク機器といってもミスはある。それが悲劇を生む。

 いずれの可能性にしても、直ちに軍事報復に訴えるべきではない。ロシアのミサイルであると判明すれば、被害者としての交渉が可能になる。第三者としての立場を超えられるかも知れない。

 ロシアに通常兵器で攻撃を仕掛けてはならない。すでに国力が疲弊している状況で冷静な判断が首脳部に残されているのだろうか。ロシアが仮に敗北したとしても、それは世界全体としては損失になる。ウクライナ侵攻を中止させ、補償を遂行させる約束を取りつけることで終わりにするべきだろう。

 もっともこのようなことを言えるのは遠い国に住んでいるからかも知れない。犠牲になった人の無念を感じられる地域の人は簡単にはいかない。戦争は憎しみを連鎖してしまう。だから、どこかで止めなくてはならない。

兵士の命は誰のもの

 ウクライナの戦争が長引いている。ロシアの圧倒的優勢かと思われていたこともあったが、実際は膠着状態のようだ。双方の被害は甚だしい。

 戦争は国家の指示によって行われる。兵士たちは任務として破壊行為を行い、殺戮を続ける。この意味で兵隊は国家の意志の体現者である。個人的な怨嗟はなくても命じられて他国兵士と殺し合う。

 ロシアが侵攻したとかウクライナが奪還したとかいうニュース最近連日報じられているがこれはその裏で多くの人が死んでいることを考えなくてはならない。市民の被害は許しがたい。そして兵士たちもまた、国家に命じられてその末に落命したことを考えるべきだ。

 戦闘員の生死は別の話という論法もある。しかし、彼らは好んで戦地に赴いたわけではない。指導者は武力行使以外の方法を考えなくてはならない。すでに犯した罪は大きいが、止めるための勇気も出していただきたい。

報復

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 ウクライナの戦争の状況は刻々と伝えられている。ただ、真実の姿は現地に行ってみないとわからない。現地でも分からないかもしれない。なぜこんなにも長期化しているのだろう。

 かつてロシアといえば冷戦時代の双璧の一つであり、大量の核兵器保有、莫大な天然資源を保有する国として圧倒的な強さがあると感じていた。共産党政権が崩壊すると、ソビエトを形成していたさまざまな国が分離し、その一つにウクライナもあった。分離した国の中にはロシア民族から文化的に遠いと思われる国家もあるが、ウクライナはその中ではロシア民族に近いと勝手に考えていた。

 黒海をめぐる紛争はかなり古くからあり、ロシアの不凍港獲得のための歴史の一つとして学生のころから教えられてきた。特にクリミア半島をめぐる紛争は現代の大問題であり、実効支配するロシアに対してウクライナは国際世論のもとで戦っている。今回の大橋の爆破事件はその象徴であるといえる。

 橋の破壊に対してロシア側は報復の爆撃を行ったという。報復とはなんだろう。何に対しての報復なのかすでに分からなくなっている。爆弾を投下する、ミサイルを撃つ口実として使われているのに過ぎない。ウクライナがここまで持ちこたえているのも長い抗戦の歴史があり、負けない方法を身に着けているからだろう。EUなどからの支援も取り付けている。その意味ではもはや地域紛争ではなく、世界大戦の代理戦をしている趣さえある。

 この戦争が世界の人々に多大なる影響を及ぼしていることは事実だ。穀倉地帯の供給をとめ、天然資源の確保が難しくなっている。それが直接、間接に世界経済を悪化させてきている。コロナのパンデミックの余波で様々な問題が発生している中で、さらなる悪影響を及ぼしていると言える。もっと深刻なのが人々の平和の理想をくじくことだ。結局戦うしかないと考え始める人が増えれば未来には絶望しかない。

 報復などしている時ではない。この争いを早く終わらせる叡智を世界は求めている。

長崎忌

長崎は忘れない

 何度か書いたことがあるが長崎忌には個人的に思うところがある。

 1945年8月9日、原子爆弾を積んだ爆撃機は八幡を目指していた。製鉄所のあるこの地域はかねてから潰しておきたい場所であるあったはずだ。ところが目標地点の天候が悪く、投下に適さないと判断した。あるいは八幡製鉄所の工員たちが煙の出るものを燃やして妨害したのだともいう。

 結果的に第2目標であった長崎にB29は向かい、厚い雲間に見えた浦上の上空にプルトニウム爆弾が炸裂することになった。瞬時に多数の命が奪われ、長年に渡る後遺症を残す惨事になった。

 その日、子どもであった父は八幡で暮らしており、第1目標地点に投下されていたとしたら間違いなく犠牲になっていたはずだ。当然私も存在し得ない。いま生きていることが偶然の結果であると痛感するのだ。

 もちろん、あらゆる局面において人生は偶然の産物である。ただ、その運命を人間が変えてはなるまい。長崎でその日になくなった人の未来を奪う権利は誰にもなかったはずだ。

 長崎には何度も訪れている。そのたびにもし北九州がこの運命を背負うことになっていたらと考える。犠牲者に心から哀悼の意を表したい。

広島平和祈念式典

 広島の原爆忌である。平和祈念式典の中では松井一實広島市長は、トルストイの言葉を引用しながら、戦争の無意味さを述べ、ロシアを念頭に核兵器を使用することで勢力を維持しようとする考えが間違っていることを訴えた。また日本のNPTへの参加を要望していた。

 今回の式典では広島出身の岸田首相の発言が注目された。被爆直後の悲惨な状況が詳細に述べられたのは異例であった。それとともに核兵器のない世界を目指すことを述べた。ただ、核兵器禁止条約については触れらえず、思い切った日本の立場の主張には至らなかった。広島出身の首相でさえも踏み越えられないものがあるということが分かった。

 グテーレス事務総長は核兵器を保有する国への強い訴えがあった。核を持たない国に対してそれを使用したり、使用することをちらつかすことはあってはならないと明確に述べていた。

 ウクライナ侵攻が続く中で、日本としてできるのは平和の意味を訴え、その具体的な方策を示すことだろう。どうもその役割を十分に果たしているとは思えない。

 なお、中継の音声にはこの式典を妨害しようとする団体の騒音がかすかに拾われている。平和を願うことすらかなり難しいということはこの事実だけでも明らかだ。我々はよく考えなくてはならない。

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割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

やめ方を指南する

 

やめ方にも方法がある

 その名をなんと呼ぼうと戦争という最悪の事態が継続していることは残念でならない。武力による状態変更は次なる暴力と結びついている。止めるのも難しい。

 反対することは大切で決して怠ってはならない。ただ、それだけではどうしようもない。喧嘩のやめ方を提案しなくてはならない。そういう方法を伝える専門家の育成も必要だろう。戦争を起こし、敗戦し、復興した日本には多くの経験と記録がある。個々の事例は普遍化できるものではないが、何かしらの参考にはなるはずだ。日本に平和交渉研究の拠点があってもいい。

 分断が進んでいるとも言われる世界情勢に何らかの提言ができる人材は必要だ。

個別に判断を

平和のために

 世界中に反ロシアの動きがある。ウクライナ侵攻に対する抗議の一環として経済封鎖がなされている。スポーツ界でも対露試合の放棄やロシア人選手の参加拒否などが相次いでいるこれらは意義を考えて行うべきだ。

 世界経済圏の中にある国にとって、金融資産の凍結や取引拒絶はかなりの打撃を与える。ロシアは国土に様々な資源を持つので、通商停止が直ちに軍事力低下には結びつかないだろう。親露国との連携もあるはずだ。ただ世界的な信用の失墜は大きな打撃となることは変わりない。

 スポーツ等の文化交流については私は慎重であるべきだと考える。あからさまにプーチン大統領を支持する選手もいる一方で、戦争反対を訴える選手もいる。政治と文化は別に考えるという理想を、今回は無効化しつつあるように感じられる。

 文化レベルの交流を保つことが和平への糸口となり、交戦国の国民に何らかのメッセージを送るチャンネルにするべきではないか。嫌なものはすべて締め出すというのでは次の段階がない。

 大変難しいが個別に判断していくことが求められている。世の中のことは大抵同じことが言えるはずだが、分かりやすくまとめすぎる傾向がある。