何を学ぶ?
学ぶという言葉の語源説明に真似ぶから転じたという説がある。言語学的にどうなのかは検証する価値があるが、民間語源説としては有名であり、かなりの影響力を持っている。この考え方は再評価されるべきではないか。
真似が単なるコピーというのなら、やはりもう時代には合わない。複製の技術は恐ろしく進歩した。知の分野においてもただ同じことを繰り返すだけならばコンピューターの方が完璧にこなす。どうも真似するのは内容ではないらしい。
最近、成功体験者の学習法を紹介する書籍がよく読まれているようだ。あの大学に入学した人はこのようにふるまったとか、何を読んだとか、どうノートを作っているとか。そういうやり方への関心が高まっている。
はっきり言ってこうすれば東大に入れるといったノウハウとしてその手の本を読むことには疑問を感じる。例えば、こんなにきれいにノートをとっていますよ、とか、レイアウトはこうするのが一流大学の方式ですといった類である。汚いノートでも優秀な人はいくらでもいるし、手帳の作り方も人それぞれでいい。
大切なのは考える際に何を重視し、どのような手順で考えているかなのだろう。ノートに関して言えば書き方はどうであれ、自分なりのまとめや、何に使えるかといったメモを付加している人は概して優秀だ。自分の考えを言語化しているからだろう。
こういう学習に対する態度は参考にすべきだろう。何をしたかではなく、何を意識しどう振る舞うかを真似るべきなのだ。ここで古典的な芸能や武芸に伝わる師弟の関係を再考したい。なんのためにそんなことをするのか理解しないまま、ひたすら師匠のまねをし、その意味がようやく分かったときには師匠の域に達していたり、超越していたりする。この説明不可能の行動の裏には学ぶことの奥義が隠されているのかもしれない。
この考えを現代に置き換えるならば、学習とは決して情報の伝達でも、処理の手順でもなく、学びに対する意識や態度に関わるということになる。教育の方法もこれを踏まえたものにしなければなるまい。