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地震

 夕刻に地震があった。茨城県南部で震度5弱だったという。地震に対する耐性ができてしまった私にとってはこの規模ならばあまり焦らない。でも、この感性はおかしいのかもしれない。

 東日本大震災の前は、震度4からは恐怖のスイッチが入り、5以上になると歴史的大事件の雰囲気が横溢した。それがいまは震度5強くらいからようやく恐怖の対象になるという鈍感さだ。

 一つには、町の耐震免震の技術が発達したことがある。震度5弱程度で崩れる建物はない。大きく揺れてもそれを受け止めるシステムができている。

 ただこうした慢心が齎す悲劇を考えねばなるまい。私はライフラインが停止した事態をもう一度考えることにする。この地震も何かの教訓にしなくては。

能登の地震

 昨日、能登半島の珠洲市で起きた局所的な地震は、ここ数年群発しており心配だ。普通の地震とはメカニズムが異なると言われている。

 京都大学の研究チームなどの報告によれば、資源地近くの地中に、かなり深い地層から上昇した水塊があり、これが地盤を不安定にしているのだという。直接の要因がマグマではなく、その影響で地中を移動する水にあるという仮説である。

 確かに能登の先端地域は、これまでの地震のときも独特な現象を見せていた。震源地が遠い地震でも、周囲に比較して珠洲市だけ震度が大きいということが何度もある。揺れやすい地盤であるとなれば説明可能だ。

 この仮説が正しいならば地震を止める手はない。将来の災害に備え、耐震免震構造の建造物を建てるようにすれば懸念は少し減る。日本国中どこでも同じだが特にこの地域は配慮すべきなのだろう。またライフラインの確保をいかにするのかも考えるべきだ。

 能登について考えれば他の地域の防災にもきっと役立つだろう。

深夜の地震

 

地震は突然

 昨日の深夜、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があった。福島や宮城などで震度6強を観測した。私の住む地域は震度4という発表だが、2回に分けて長く揺れたため、恐怖を感じるものであった。

 現時点では揺れの大きかった地域で怪我人の報告があり、鉄道の脱線なども起きているらしい。全容は朝にならないと分からない。11年前の大地震と同じ震源域であり、専門家は余震の一つと推測している。いまだに余震があることは驚きだ。

 原発の冷却装置にアラームが発動したとの報道もある。大事に至らないことを祈る。続報を待って判断する必要がある。↓。

デマを読む

 東日本大震災の余震と見られる先日の大きな地震は多数の負傷者を出したものの死者は出なかったようだ。原発などにも事故の報告はない。ただ、今回も問題になったのはネット上に溢れた様々なデマや不適切なメッセージだ。

 ツイッターでは地震の後に人工地震というキーワードがトレンドとなった。人工地震とか地震兵器といった言葉は2011年にも散見されたが、それが非科学的であることは周知されてきたはずだ。今回はジョークとしてこの言葉が扱われている。緊急時の発言としては極めて不適切だ。どうもソーシャルメディアはこの手のメッセージに市民権を与えてしまった。

 送り手の特定はかつてより容易になったといわれる。匿名性はあるレベルを越えると維持されない。ただ、表現する自由に踏み込みすぎるとソーシャルメディア自体の価値が損なわれる。社会としても損失だ。

 結局、私たちがデマを読む力を持たなければ仕方がない。何を信じるべきなのかを日頃から意識しておく必要を感じる。地震のような異常事態でもぶれることがない判断力をいかに身につけるのか。それが大きな課題だ。

10年後の余震

 昨夜、東北地方で大きな地震があった。最大震度は6強という。かつてなら歴史的な大地震とされただろうが、東日本大震災以来、各地で発生した大きな地震にすっかり慣れてしまった。今回はその大きな数値とは裏腹に被害は大きくはないようだ。津波も発生しなかったのは幸いと言える。

 関係者の報道によるとこれは2011年の東日本大震災の余震という。まもなく10年目を迎える大地震はまだ幕を閉じていないことになる。震源地を見ると仙台沖であり、これも先の大地震のそれと近い場所だ。これより南北に離れたところで地震が発生するとされているので、まだ地震発生のエネルギーは解消されていないことになる。

 昨夜はかなり疲れていたこともあり、東京も大きく揺れたが結局そのまま寝てしまった。よくも悪しくも地震には慣れてしまっている。危機に対する私の(もしかしたら日本人の)特性なのだろう。これだけ多くの地震が続いてもすぐに忘れることができるのは、考えてみれば恐ろしい。たくましいとか、したたかとかいろいろな言い方ができるかもしれない。

 10年たって何が変わったのか。防災意識はたしかに高まった。しかし、実行に移していることは少ない。一つだけ言えるのは慌てなくなったということだ。何とかなくと割り切ってしまうことが増えた。収穫なのだろうか、退化なのだろうか。