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作文力

 どんなに拙くても自分の言葉で意見を書く練習は必要だ。AIの時代だからこそ作文力がものをいう。

 じっくりと自分の意見を温めて整理してから文章にするという経験が生活から失われてきている。予め用意された型を組み合わせ、それなりの文書を作ることはできても、型のない新たな局面における文章はなかなか書けない。

 ChatGPTの生成する見た目はいいが内容がおかしい文章を冷笑する前に、己の文章力を反省しなくてはならない。コンピューターのように潔く変な文書を書く方がやはり遥かに勝っていると言わざるを得ない。

 私は人に作文を教える立場にあるが、まずは自身の文章を見直さなくてはなるまい。このブログは20分あまりの通勤電車のつり革に捉まりながら書いているので、熟慮がなされていない。これでは真の文章力は上達しないのだろう。

 どうしたら文章の作成力を向上に貢献できるか。それが私の課題の一つである。

ナンバリングとラベリング

 レポートの書き方の手法にナンバリングとラベリングというものがある。外来語で書くとことごとしいが、要するに番号づけと要点を先に述べるということだ。これはかなり前から作文教育で使われてきた。またディベートなどの口頭発表においても定番の技術だ。

 わかりやすく伝えるための誰でもできる方法で、特に作文が苦手な人におすすめしたいやり方なのだが、教えても定着しなかった。ところがその状況が変わりつつある。

 現在、この手法を活用しているのはAIによる文章生成プログラムだ。質問に対して答えの要素を内容ごとに箇条書きしてくる。さらにそれぞれの文章のはじめにトピックセンテンスが置かれ、読者にとって理解しやすい。すべてが同じ型なので味わいはないが、答えを知るという目的には叶っている。

 作文が苦手な人にはこのコンピューターが生成した文章を示すと、ナンバリングやラベリングのよさを実感してもらえるだろう。

 実はこうした文章には欠点もある。ナンバリングする際のまとめ方が思ったより整然とはいかない。同じことを何度も述べてしまったり、別の要素にしたほうがよいものを無理に結びつけたりする。この矛盾が分かりやすくなるのだ。AIの作る文章でもしばしば見られる。

 作文の指導にAIを使い、良い手本にも悪い手本にもなってもらう。これならばいいのではないか。

GPTを超えろ

 教育現場においてChatGPTをどのように扱うのかは大きな問題になっている。現時点でもかなり自然な文章作成ができるレベルにあり、本人作なのか生成された文章なのかを見分けることは難しい。

 恐らく始めは使用禁止という指導で済むのかもしれないが、その縛りは長くは続くまい。見破るための方法も開発されるだろうが、文章作成能力を育成するのならばそういうことをやっても埒が明かない。むしろ積極的に活用せよという局面はすぐに来るだろう。

 その場合、大切なのは何が理想的な文章であるのかを見抜く評価力だろう。コンピューターが書いたのだから正しいに違いないなどと考えていると大きな間違いに陥る。次の文章教育は何が理想的な文章なのかを判断する能力の育成ということになるだろう。

 そのためには手本となる文章を徹底的に読み込むことが必要になる。これは機械ではできない。まだ国語教師がやることはたくさんある。

当然、打消

 古典を学習していると気づくことがある。完了の助動詞の「つ」「ぬ」「たり」と過去の助動詞「き」「けり」が連続するとき、必ず完了、過去の順に繫がり逆の例はほぼない。「てき」「にき」「てけり」「にけり」はあるが「けらぬ」は見たことがない。助動詞には繋がる順番が決まっているようだ。

 では当然の助動詞「べし」と打消の「ず」の場合はどうか。多くの場合は「べからず」となる。当然、打消の順だ。逆はどうか。「ざるべし」の形はなくはない。どちらかといえば不可能や不適当を表現する場合に使うような気がする。当然の打消の場合は「べからず」のほうが優位ではないだろうか。

 なぜこのようなことにこだわるかといえば、最近「へきではない」ということろを「ないべきだ」という表現をよく目にする耳にするからだ。「ないべきだ」は間違いではないのになぜか気になる。不適当の意味の「ない方がいい」の意味で使うならばいいが、不許可、禁止の意味で使うとどこかに違和感を覚える。

 日本語の仕組みとして打消は最後にあって、その前のほとんどをひっくり返す。文の途中にあると部分否定のような趣になり、打消の意味が弱まることに原因があるのかもしれない。

 こういうことを使用者が納得して使っているのかいなかはコミュニケーションの成否にとっては重大事項だろう。それを考えさせるのは国語教師の大切な役目だと考える。

シナリオのような出題

 国語の最近の問題には教員や生徒が話し合いをしているかのような選択肢を並べ、この中で的を射ているものはどれかといった出題がある。インタラクティブな授業を再現したかのような見え方をするが、実は形を変えた読解の設問である。この形式の出題で一層はっきりしたことがある。

 文章読解問題の解答は根拠を求めて、それに適合するものを正解とする。そうでなければ読解問題など成り立たない。ある文章を読んで何が書いてあるのかを答えよというとき、こうも読めるああも読めるでは評価ができないからだ。だから、ここにこう書いてあるからこの時点では正解だ、としか実は言えない。それが国語の問題というものなのである。実に表面的だが、最近はこの表面的な読みも怪しい人が多いので国語の時間が必要になる。

 より現実的なことを言えば、数ページ分の文章の中で、筆者の言いたいことを把握することは無理だ。筆者の考えはそんなに単純ではないし、もし単純なものならばわざわざ本にするまでもない。でも出題文の大半は出版された書籍の一部の引用だ。そこで何が言えるかといえば、国語の問題は結局、人の文章を使いながらも出題者が答えさせたい答えを論理の方法によって答えさせるものであるということなのだろう。

 でも、この方法は制限がある。他人の文章に何が書いてあるのかを問うには、「Aとは何か」か「Bといっているのはなぜか」(=その理由を筆者はどう説明しているのか)、さらに「この文章(実はその一部)で筆者は何が言いたいのかをまとめよ」くらいの出題しかできない。事実、国立大学の二次試験は大体この型に当てはまってしまう。そこで生まれたのが、別の文章と組み合わせて比較させるという出題である。Xという文章にはこう書いてあるが、Yにはこうある。その違いは何かと答えさせると別の問いができる。そして掟破りがシナリオ型出題だ。これは他人の文章を借りてくることなく、出題者が勝手に作った文章で自分の答えさせたい解答を選ばせることができる。他人の文章の読解という枠を破ってしまった。出題者が私の答えさせたいことはなんだか見抜いてみよと言っていることになる。

 その結果、国語の問題というのは要するに出題者が答えさせたいことは何かを見抜き、それに答えるものという当たり前のことを確認させることに至った。よく入試シーズンに問題文として引用された作家なり文筆家が、自分の文章を引用した問題が解けなかったということが話題になる。これは何の問題もないのだ。答えさせたいのは筆者の考えではない。あくまで引用された部分の中で辻褄が合っている(と出題者が考えた)ことを答えることに過ぎないのだから。

なるべく黙る

 来年度の教室での目標はなるべく黙ることである。教えずに教える方法を完成したい。

 私の勤務校は模試などの成績の結果に拘る悪しき習慣から抜け出せずにいる。その結果、教え過ぎ自主性が育たない。言われたことはやるがそれ以上にはならない。日本の大学入試がこの言われたことを無批判にやることしか求めないから、これでなんとかなってしまう。結果にコミットするというならば正解に思えるが、私としてはかなり不安だ。将来淘汰されるエリートを輩出していないかと。

 大切なのは自ら学ぶ力だろう。これには人さまざまのやり方がある。それを一つの方法に括るのは間違っている。例えばたくさん宿題を出せば教員は安心だ。やれば成果がでる可能性があるからだ。しかし、無理矢理やらされた生徒はこれを短期記憶で片付ける。だから何も残らない。

 自分で考え、それを他の生徒に説明する機会を意図的に作るのが私の仕事になる。自分の言葉で説明することが真の知識獲得の方法なのだ。

 わたし自身は大学生までは教員の話をひたすら覚えることが学習だと思いこんできた。試験にもその通りのものが出るからだ。しかし、多くの学習内容はテストが終わると忘れてしまう。目的がテストで得点することでそれ以上でもそれ以下でもなかったからだろう。

 真の知識を形成するのは効率が悪い。時間も手間もかかる。でもそれがこれからの教員の役割だ。手間のかかる方法を考え、それに付き合うことだ。時間はかかるし結果が出るのには長期的展望がいる。でもやってみようと考えている。そのためには教え過ぎないことだ。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

伝わらない思い

 何でも簡単に「配信」できると錯覚してしまう環境にある。言った言わなかったがトラブルのもとになってきたのはかつてからだが、いまはメールか何かで送った送らなかった、読んだ読めなかったの問題になることがある。結局同じことなのだろう。

 リアルタイムで同じ場所でやり取りしていても誤解は生じる。近年はコミュニケーション能力、とりわけ受信力に劣る人が増えている。かくいう私もその一人だ。相手の立場を察する洞察力や、自分の言動が将来どのように伝達されていくのかを予測する力も欠けている人がいる。高度な教育を受けた人にも多くいるから、恐らくいまの社会に欠けている何かがあるのだろう。

 情報技術は飛躍的に進歩したが、それに人間の方がまったく追いついていない。それどころか、人間らしい意味や価値観の分野を放棄して、すべてを人工知能に委ねようとしている。

 残念ながら、私たちには伝わらないことが多数あるという現実を知るべきだ。そして、人間性とはどのようなものかを自覚するべきなのだ。そのためにも古典文学に接し、小説や詩をもっと読むべきなのだ。その意味でもいまの国語教育の方向性には大きな疑問を感じる。

覚え方を教える

 国語教育の目的は母語の活用方法を深く教えることにある。漢字や文法、文章読解、作文、古典の基本的な読解などやるべきことはいくつもあるが、もう一つ大切なのが学び方を教えることなのだろう。学習という行動の中での言葉の使い方を教えるということである。

 断片的な知識を学んでも直近の考査で得点できてもすぐに忘れてしまう。これは若者の特権能力である短期記憶を使っているからで、長続きはしない。そもそも長くその知識を利用しようとする意識がないのだ。これは学習者の怠慢だけではない。教える方がそのような問い方ばかりしているからだ。

 長く残る記憶のほとんどは何らかのエピソードと結びついている。子どもの頃に覚えた言葉を忘れないのは、それに纏わる思い出とともに覚えているからだろう。この記憶法を国語教育で行うべきなのだ。

 現場でこの話をすると同僚からは同意された後で、ではどうやるのと問われることになる。生徒諸君にはそんな回りくどいことをすると覚える量が増えるだけだと言われる。彼らは短期記憶の王者だから、丸暗記の方が手っ取り早いのだ。そして王者の地位はすぐに奪われることになる。

 この記憶法はやはり母語の活用方法の一つとして教えるべきだろう。断片的記憶はもはや機械に代替される領域だ。大事なのは知識を関連づけ、自分の言葉として語れるようにすることである。これを国語の時間で鍛錬するとすれば、学んだことを素に自分の言葉で他者に説明できる力を身に着けさせることだ。教員が説明したことをそのまま鵜呑みにして試験に書けば正解になるというのは止めなくてはならない。

 そのためには考え発表する機会を増やすことにシフトしなければなるまい。基本的な事項を疎かにしないよう小テストを活用しつつデジタルデバイスもときに使いながら国語の運用力を伸ばす試みをしていこうと考えている。

伝統的価値観

 古典作品を読んでいるときぶつかるのが現在との価値観の違いだ。文法や単語の意味が分かってもこれが分からないとしっくり来ない。

 たとえば極楽往生を目指す僧侶の話ではなぜ死が幸福に繋がるのかが分からない。そしてただ死ぬだけでは往生できない。様々な手続が必要なことも分かりにくい。

 前世の因縁をいちいち持ち出すことも理解を越えるはずだ。何かにつけて運命だという考え方は現代人には不思議である。消極的な生き方のように思えることもあるだろう。

 身分制度が当たり前の人間観も納得しにくい。血筋がいいだけで全人格的尊敬を゙受け、身分が低いと下品と分類される。これもかなり理不尽である。

 古典を読むときに現代の価値観では理解できないことが多い。一度過去の価値観を知り、それに基づいて世界を見直す必要がある。古典教育の目的の一つはここにあるはずだ。何も暗号読解のように古典を解読することばかりに集中すべきではない。