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経験と感触

 物事の本質を見るためには直感が必要なのだろう。ひらめきと言ってもいい。それはまさに天から降ってくるような感覚だ。

 その直感はどのように培われるのだろうか。天賦のものという表現もある。しかし、これは先天的な要素だけではうまくいかない。経験と感触の記憶のようなものが影響していると言われている。

 天才と言われる人は何もせずに能力を発揮できると信じられている。ただ、その才を表出する前に基盤となった経験をしていることが多いようだ。一見結びつかないような出来事から才能を開花する養分を得る。自分でも意識しないうちに準備ができているということになる。その組み合わせが起きる可能性が低いため、天才は希少なのだ。

 天才にならないまでも、私たちは一見結びつかないが経験やそこから得られた感触が知的活動の基盤になっていることに気づかなくてはなるまい。役に立つことだけをやろうとする昨今の風潮はその意味でかなり危険だ。シンギュラリティを恐れている人間が進んで機械の思考システムに近づこうとしている。

僕らの知らない道だけど

 仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。

 同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。

 自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。

 私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。

哲学の重み

 翻訳アプリの精度が上がってきたので非英語の外国ブログを読むことが増えている。最近はスペイン語とアラビア語のブログを読んだ。さすがに機械翻訳の限界と思われる不自然な訳もあり、完全には理解できないが、それでも概要は想像することができる水準までにはなっている。

 それらのブログを読んでいて思うのは哲学の知識がかなりふんだんに使われているということだ。西洋や中東の人々はどうも哲学的な話をするのが好きらしい。自分たちの考え方の尺度、もしくは基準として先哲の考えを引用しながら論を展開することが多いように思える。

 日本の思想家の多くは西洋哲学を熟知しながらも、どこかで日本なり東洋なりの思想背景を感じさせる何かがある。それは自然を包み込むような包容力のようなものかもしれない。西洋の場合は異論に関しては絶対に許さないという感覚がある。こうした違いがブログのレベルでもうかがえるのは面白い。

 私の記事はそこまで深く考えられていないのは恥ずかしい限りだ。せめて日本らしいものの考え方を分かりやすく示せればと考えている。

どこから始めるのか

 同じような日常の繰り返しでも見方を変えればまったく違った印象になる。どこから始めるのかほ大きな問題の一つだ。

 成長期に何かを始めれば大抵のことは成功し、小さな傷も気にならない。その後に訪れる収穫を待つだけでいい。ところが衰退期に加わったなら、全く違う展開になる。大抵のことは、失敗し、それが破滅の道のように感じるものだ。これはどうしようならない。流れというものだ。

 どこから始めるのかほ自分では選べない。たまたまドアを開くとすでに芝居は始まっている。そこで展開するのが喜劇なのか悲劇なのかは分からない。

 考え方を変えるほかあるまい。衰退ほ長くは続かないかもしれない。流れが変わる可能性もある。万一、このまま下がり続けても、下り道ならではのおもしろい風景もあるはずだ。

 どこから始めるのかは選べないが、それをどのように受け取るのかは自分次第なのかもしれない。

分断

 いろいろな局面で分断が起きる可能性があると言われている。国際的には超大国の利益が衝突し、世界が分断しつつある。その一国のアメリカでは階層や人種、主義などによる分断が表面化しつつある。一部の欧州の国が独立を目指しているのも分断の兆しだ。そしてこの日本にもその傾向は忍び寄っている。

 経済的な格差は日本ではまださほど顕著ではない。ただ、多くの人々が低賃金で働き、さらに非正規雇用といった不安定な立場にある。すると、経済力の差や雇用形態の差で分断が起こるかもしれない。世代格差もある。若者層の中には今の高齢層が享受してきた繁栄に比べて、自分たちの時代が低調であり、さらに高齢者扶養の責務まで押し付けられていると考える人がある。例の集団自決発言は極論であるが、慎まぬ本音が出たのだとも言える。

 分断を避けるにはどうすればいいだろう。少なくともいまの日本にとって分裂はマイナスの要素しかない。これまで享受していた国家としての市場をさらに小さなものすれば負荷をさらに付け足して走るようなものである。まずは社会的な意識を考える必要がある。スポーツに例えるなら団体戦なのだ。しかもこれは一人勝ちしても未来はない。

 我が国は戦争の反省から、国のために何かを考えることは避けてきた。偏狭な国家主義は危険だが、社会を単位に物事を考えることは見直してもいい。難しい問題だが、こういうものごとの基本的な考え方を見直すことが、今のこの国には求められている。

条件付きミニマム

 ミニマム生活をしている人の話を聞くと、結局余裕のある人だということが分かる。捨て去ったのものはレンタルや公共物で済ますというが、それにはコストがかかる。非常時には相場が吊り上がるがそれも見越している。つまりは手元資金があり余裕のある人たちの選択なのだ。

 残念ながら私にはそれがない。いざというときにはいまの蓄えが担保となっている。これは残念ながら現実だ。少しこの考えを変えていこうと思う。

 ただ何でも捨ててしまうミニマリストの考えは受け入れられない。どんなに無駄なものでも本人にとって大切なものは持って置くべきだ。それが他人には無価値なものであったとしても。

 私はそこで恣意的な物質放棄を始めることにした。世の中の価値観ではなくあくまで自分の物差しでいらないものを処分する。条件付きミニマムで整理をしていこう。

理に任せる

 困ったことだらけの毎日をもがきながら生きている。皆さんも歳を重ねると分かることがある。この世は決して思うがままにならない。過去のいい思い出を基準として、そこからどれだけ下がったのかばかり気になる。これは仕方ないことだろう。

 そういう時に一番楽なのは既成の生き方の手本にすがることだ。それが宗教や哲学の出番である。宗教ならばそれを支える組織があり、組織の一員となれば一定の満足感は期待できる。某カルトのようなここにつけ込む集団もいるから気をつけなくてはならない。ただ、本人が安心できる環境を提供してくれるのならやはり宗教の存在価値はある。

 哲学というのもそれに似ている。ただしその教えもしくは考えを実際に支えるのは個人の意志であって、誰も導いてはくれない。別の方向に迷い込んでもあくまで個人の責任である。それでは困るから哲学には処方箋のようなものがほしい。

 理に身を委ねることは甘美な誘惑である。適度に用いれば救いになるが危険を伴う行動である。

 立春である。地球と太陽の位置関係に名付けをしたのに過ぎないのだが、それでも何か変わったような気がするがおもしろい。物理学者は時間は存在しないという。これも人間の脳が生み出した幻影なのだろうか。

 春はいろいろなことの始まりと考えるのが日本の伝統的な季節感だ。元旦よりも4月の方が開始の時期と考えられる。年度の開始月であるからだが、もう身体に染みついている。他国ではこれが通用しないというから、時間観というのは文化の一つということになる。

 存在しない時間、もしくはあったとしても相対的な時間に一喜一憂するのはなぜだろう。幻覚に囚われているうちに何か大切なことを見失っているのではないか。もし、時間が幻想であり幻覚ならば、私はここに存在するということも夢の一部に過ぎないことになる。

 この仮説は科学的に証明されるとしても実感としては肯んずることはできない。たとえいまここにいる自分が幻覚であり、他にも自分は存在し別の場所にいるとしても、それぞれの自分が実感できる世界は一つである。他は想像するしかない。ならば、あくまで自分という座標軸においては今いる周囲しか見渡せない。

 限られた世界に閉じ込められているからこそ時間は感じられ、感情がわき起こる。喜びも悲しみも見渡せる地平が限定されているからこそ発動するのだろう。

 春に何かを素直に感じるのはその意味で当たり前だ。ただ、その情念が知覚しうる条件のもとで起きているということを心の片隅で考えておくのは、危機的状況を救う命綱にはなるかもしれない。

軍艦

 子どものころ、軍艦のプラモデルをたくさん作った。単純に機械としての魅力が大きかった。それがかつて多くの人を殺害し、多くの人がそこで死んだ場所であることを知っても、実感できるまでには時間がかかった。

 子どものころと同じようにいままた分からなくなりつつある。機械はただ目的に沿って動くだけであり、それをどのように解釈するのかは人間の側にある。人間の心のあり方で機械はどのようにも見える。いかなる役割も果たす。

 軍艦はその代表であり、そんなに大きなものではなくても、殺人兵器でなくても同じだ。何ために道具は作られ、作られた道具が結果的に何をもたらすのかは、何歳なっても予測できない。何らかの悩みを解決するために作られたものが、新たな悩みを生み出す。

 作られたものはある意味で人の願望の理想形であり、その外見は魅力的だ。それゆえにまた人を惑わす。道具を作ったつもりがいつのまにかに使われているということになりそうだ。

遠景

広い風景は気持ちがいい

 遠い風景を見ると心が落ち着くことがある。山の上とか、建物の上階から見下ろせばよりその効果が高い。なぜだろうか。

 おそらく身体的な理由があるのかもしれない。ある体内物資が分泌されるといった説明だ。これについてはよくわからない。ただ、別の理由もあると思う。

 遠くを見ることで自分の位置が相対的に把握できるというのは大きいのではないか。自分がいまどこに位置し、世界とどのような関わりを持っているのかが直感的に理解できる。また、風景を俯瞰することで日常のレベルでは気づかなかった視点、視座を獲得することが快感をもたらすのかもしれない。

 風景の中に自分の存在を客観視し、周囲との関わりを感じることができることこそ、遠景を見る愉しみであると考えるのである。