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表情筋

 正しい名称は知らないが表情を形成する筋肉はとても複雑な動きをしているに違いない。わずかな表情の違いを私たちは読み取る。だからそれに応じて微妙な形を作り出しているのだ。

 人工知能で作画したアニメーションはかなり自然に近い動作を生成できる。ただ顔の表情となると何か違和感が生じる。説明が難しいがそうはならないという動きになる。手作業のアニメでもこの問題は完全には解決できない。我々はアニメーションにおける表情の型に慣れてきているので不気味さを感じないだけなのだろう。

 歳をとると表情が乏しくなるらしい。他人を見てもまた自分自身のこととしてもどうやらこれは当たっているようだ。表情筋にもそれなりの体力がいる。顔のトレーニングもやはり必要なのだろう。

あのひとは今

 よくある企画にあの時活躍していたあの人は今というものがある、YouTubeでそういう画像を図らずも見てしまった。その多くは私が子供のころに活躍していた俳優の話なのだが、彼らの中には自分の年齢に近いころに亡くなっている人が多いことが分かった。自分の年齢を他人の享年と比べることが深刻な問題として認識されたということである。平たく言うと老いの焦りの発動である。

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 昔は漠然と自分は何歳くらいで死ぬのかもしれないと考えていた。根拠のない運命論である。しかし、勝手に考えた寿命を超えてまだ生きており、ありがたいことに意志もしっかりしている。非常に漠然とであるが、自分は余生を生きているのではないかと考えることが多かった。

 生物学的な見地によれば人間の自然界における平均寿命は38歳くらいだという。DNAの解析からその情報が読み取れるというのだ。それを人為的に引き延ばしている。この研究によれば、ホッキョククジラは268年もの寿命を持ち、絶滅したマンモスは約60年であったという。これより以前、動物のサイズが寿命と相関するという論を本川達男氏の著書で学んだことがある。この書によれば日本人サイズの生物の場合寿命はさらに小さく26歳あまりである。いずれにしても現生人類は生物的には非常に「不自然な」毎日を送っているということになる。

 最初の話に戻るが自分の年齢かそれ以下で有名人や知人が多く亡くなっていたとしても極めて「自然」なことなのだということになる。むしろ今自分が生きている方が奇跡というものなのだ。そう考えるとあまり気負うことはない。もはや余生なのだから、やりたいことをやるべきだし、若い世代のためにできることをするべきだと考えられる。私も今日死んだとしてももはや天寿は全うしつくしている。焦ることはないのだ。そう思い直すことにした。

素顔恐怖症

 マスク生活が終わろうとしている。私の場合は花粉症対策もあり、しばらく後になるがそれもそう長くはない。道行く人が皆マスクをしているという異常な光景は間もなく見納めだ。しかし、復帰にはいくつかの関門がある。

 コロナのパンデミックが始まる以前から常にマスクを外さない人がいた。身体的な要因からではなく、心の問題であった。自分の素顔を晒すことに極度な恐怖を感じるのだという。マスクをする代わりに派手なメイクをしたり、中には奇抜な衣服を身に着けたり、異性の服装をする人もいる。衆目を集めることになるが、見られるのは自分自身てはなく、自分が作り出した容姿であるという安心感があるようだ。

 マスクはこうした素顔恐怖症の人たちの救いであった。これからもそうなるはずだ、この症状には濃淡がある。私もその薄い症状になっている気がする。マスク越しでないとできなくなった何かがある。

 恐らくこうしたおそれは日常生活の中で徐々に消えていくのだろう。どうしても難しいときはまたマスクをつければいい。その意味を理解する人は以前より格段に増えているはずだから。

花粉症対策

 今季の花粉の飛散は極めて多いようだ。すでに自覚症状が出ている人もいるというが、関東地方では今週末くらいから本格的な花粉症の注意期間に入るらしい。

森林浴は好きですが

 私は子供の頃から症状に悩んできた。ここ数年はコロナ対策のためのマスクのせいで気にならなかったが、それよりも対策薬の恩恵にあずかってきたのが大きい。今年もそろそろ始めたい。

 花粉症の薬は効きだすまで時間がかかる。だから早めの服用が求められている。週末に向けて明後日辺りから始めようか。マスク着用義務がなくなりつつあるが敵はウイルスだけではない。困ったことである。

目覚め

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 目が覚めた瞬間、最近はスマートフォンの画面を見る毎日である。というのも、私はスマホにアラームをセットして起きるようにしているからだ。ささやかなピアノの音と、バイブレーションを同時に発動して起きるようにしている。それを止めるために画像を見る。よく考えてみればこの時点から私はスマホに侵されている。

 その画面には大体次のような文字が出る。おはようございます。今日は2月1日です。天気は晴れ、東京の最高気温は13℃で最低気温は-2℃。といった日付と気象情報だ。これを見ながら、私は時間軸と自分が置かれた位置や環境を把握する。

 おそらく同時にいろいろなことを思い出す。私は何者であるか、どのような人間関係にあるか、どんな気質でどんな性格なのかなど自分についての様々を瞬時に思い出すのだ。これは考えてみればかなり大変なことである。長期記憶を失った人が、毎朝自分の生きてきた生い立ちを録画したビデオを見て、自己を再認識するという映画を見たことがある。極論すればそういうことなのだろう。幸い私たちはどこかに長期記憶を蓄える仕組みを脳に確保していて、寝ても自分が誰だか忘れないのだと思う。

 ならば、長期記憶をおろそかににすれば、自己認識さえも危うくなり、自分という存在が保てなくなるということになる。記憶を機械に任せるのはその意味で危険だ。目覚めたとき自分を取り戻すためにも、いろいろなことを覚えることをあきらめないでいようと考えている。

疲労時の判断

 疲れているとき大きな間違いをおかしやすい。そういう経験をいくつも重ねてきた。その理由は何か。

 冷静になれなかったからという考え方は間違っていない。確かに疲れた頭で適切な判断をすることは難しく、それが失敗に繋がると言えそうだ。だがそれだけではあるまい。自分では落ち着いていたはずなのにと思うこともある。

 記憶の一部が阻害されるからという別解を考えている。ある程度の披露が蓄積すると、記憶の蓄積量が減り、目の前のことしか判断する材料がなくなる。普段なら過去の経験から、止めた方がいいと判断する選択肢を選ぶ可能性が高まるのではないだろうか。

 私たちが何かを考えるとき、常に目前の対象とともに過去の経験との照合を続け、最適解を探している。それが疲労時にはできなくなるのではないか。

 ならば重大な決断は疲労時に行うべきではない。時間のおいて再考すべきだ。どうしても決めなくてはならない時は、疲労する前に日常的判断のルールを決めておき、それに従うというやり方にするのがよい。

 経験的印象に過ぎないが記憶が体力に左右されるという事実は間違っていないはずだ。

低温乾燥

 このところ気温が下がり乾燥した天気になっている。風邪をひく人が増えた。問題は乾燥の方で様々な健康障害をもたらすようだ。

 寒さにはある程度耐えられるが、乾いた空気がいかんともしがたい。雪国から来た人は多くがこう話す。体感に大きく作用するのは湿度の低さであるようだ。肌の表面から感じ取る冷たさの度合いが変わる。

 喉の乾燥はウイルスの感染にも関わるようで、コロナウイルスだけではなく、インフルエンザも同時流行の気配があるという。しばらくは辛い季節となる。

治癒

 ホメオスタシスという言葉に慰められている。体調が悪いときはひたすら休むしかない。薬はあくまで補助的なもので、身体自体が健康を取り戻すために戦ってくれるのだ。

 風を引いたり、腹を壊したり、そういう病には何度も直面してきた。それでも数日後には回復が始まり、10日もすればほぼ元通りになる。これは身体がもつ平衡保持能力の為せる技である。

 生き物の仕組みとしての能力に驚かされる。いまはその進化の過程で獲得された能力を感謝しよう。

冷え込み

 かなり冷え込んできている。久しぶりに眼鏡をかけて外出したところ、マスクから漏れた息でくもって使いものにならなかった。

 マスクの上を折るとか紙を挟むとかそういう工夫が必要なことを思い出した。これは何のときに言われたのか。もう思い出せない。

嵐の予兆なのか

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 個人的な問題を書いておく。前回もそうだったが台風が接近するとどうも体調がおかしくなる。そして夜眠れなくなる現象がある。これはおそらく心身両面に何らかの影響があるからであると勝手に判断している。

 実際の台風はまだ日本の南海上にあり、沖縄に近づきつつある。住まいからはかなり遠い。昨日は陽射がありかなり暑かったが、ときおり大きな雲が通り過ぎた。しかし、まだ悪天候といえるものではなかった。にもかかわらず、軽い頭痛と、抑えられていた秋花粉への反応などが起き、少々つらい一日だったのだ。

 これがよく言う気象痛なのかは分からない。過去にもそういう事例を多く経験しているので、あるいはその例に当てはまるのかもしれない。気圧の変化などが関係しているという。ただそれにはまだ原因となる低気圧(台風)が遠すぎる気もしている。

 もう一つはいつか前も使ったしゃれだが、「気のせい」が原因かもしれない。つまり精神的な要因で一種の思い込みだ。台風が来ると体調が崩れるという過去の経験が何度か続いたため、それが偶然の重なりであっても因果関係を考えるようになってしまったということである。おかしな話だが、こうした条件反射は存在するらしい。

 さしあたって今日はほとんどよく眠れなかった夜を超えて一日をどう過ごすかだ。世の中は連休というが私は仕事がある。そして二連休に入る。今日やっておかなくてはならない仕事を伸ばすとよろしくない事態になる。台風などに負けてはいられない。あるいはこのプレッシャーが台風よりも強いのかもしれない。