タグ: 人生

反面教師

 教師と人から呼ばれる職に就いている私にとって反面教師という言葉は決して名誉な言葉ではない。だが、私は反面教師にもならなくてはならないと思っている。

 私の場合、人の範たる存在になることを目指して教員になったわけではない。自分の好きなことを追求していくうちに自然と教員になってしまったというのが正解だ。この件については様々な言い逃れを考えているのだが、真実を簡潔に述べるならば先に述べた通りの事実となる。私のやりたいことがたまたま教育と親和性が高かっただけのことである。

 教師になりたいと思っていなかった私が教師になった結果、かなり中途半端な存在になってしまった。本当は成績なんかどうでもいい、自分のやりたいことをやれと言いたいのに、小手先の点数を上げる技術ばかりを話すようになってしまった。それで進学率が上がるのだから他人からは褒められるし、成績が上がらなければ叱責される。よく考えてみればそれは本人次第だ。生徒を騙して名門大学に入れたところで、本当にその生徒は幸せになれるのだろうか。エビデンスなど何もない。

 この煮えきらないところはきっと生徒には見破られている。なんであなたは他の先生とは違って成績なんてどうでもいい好きなことをやれ、と言いながら、他の教員と同じようなテストを課すのか。そして点数にこだわるのかと。この弱みについては私は何も反論できない。敢えて言うのならば、人生は必ずしも思い通りには進まない。ときには折り合いをつけることも必要なのだと。

 反面教師として自分を見てくれるならば、それは私の存在価値があったということになる。悲しむ撃破それに気づかない生徒がいることだ。世の中はすべて理想通りに進んでいると信じて疑わない人物を生み出しているとしたならば、それは大きな失敗になる。

 いかに自分がメッセージを伝えられるか。そして、反面教師としての役割を果たせるのか。それが大切なのだろう。

疲労

 昨日体力を使うことがあり、かなり疲労してしまった。ただ、改めて思うのは肉体の疲労は時間をかければ回復するということだ。日常の精神的な疲労は、肉体疲労に比べればはるかに分かりにくいが、回復するのには相当な時間がかかる。どちらが厄介なのかは明らかだ。

 日常から逃れることができたならと考える思考は昔からあった。それが祈りになり、宗教にもなった。ただ、生きていながら脱日常はかなり難しい。そこで折り合いをつけるしかなくなるのだ。

 考えてみれば、肉体的に疲れることは日常を生き抜くための手段なのかもしれない。必ず回復することを体感することで精神的にも救われるのだから。

時代おくれ

 つくづく自分は時代遅れだと思うことがある。そういうときはいままでやってきたことに自信がなくなっている。これまでの道のりが無駄なものであったかのように考えている。こう考え出すと止まらなくなる。

 先日、先輩にお会いすることがありこのことを話した。するとどうもそうでもないという。時流に乗ることは自分を陳腐なものにしていくことに繋がる。だから、周りとは違うやり方でも構わないし、むしろその方が貴重なのだ。堂々と時代を外れる方がいいのだというのだ。

 恐らく落胆気味の私の表情を悟られて激励のつもりで仰られたのだろう。でも、この助言は私にとってはとてもありがたいものであった。やるべきことをしっかりと自分の調子で続けるのが大切さなのだ。

 と言うわけで時代に遅れてしかも意図的に外れて生きることにする。このブログも文字ばかりでよくない例という例に入るようだが、おもねることなく、硬派に駄文を連ねることにする。

僕らの知らない道だけど

 仕事柄、いろいろなことに躓いている人に声をかけることが多い。そういうときに思うのは人それぞれのやり方があっていいということだ。

 同調圧力をかける側の仕事をしておりながら、自己矛盾も感じる。ただ、やるべきことは人によって違う。やり方も人それぞれという事実は忘れてはならない。他人と別のやり方では都合が悪いのは自己利益のために誰かが犠牲になることだ。それは避けるべきだろう。全く何も迷惑をかけないことは不可能だが、それにも節度がある。それを超えるものでなければよいのではないか。

 自分の歩いた道は人にも勧めやすい。少なくともその道でどう振る舞えばいいのかを心得ているからだ。対して自分が経験したことのない進み方をしている人にはついそれは間違っているからこちらに来いと言ってしまう。その人の適性など考えることなく。

 私はそのやり方は知らないが、でもそれがいいならやってみるといい。そういう余裕をもちたい。

もう一つの道

 成功例があると皆がそれを模倣しようとする。間違いではないが総体的には危険だ。もしその方法が間違っていればすべてが水泡に帰す。いまの世の中はそういう選択をしやすい。

 生き残るためには多様性を確保すべきだということは生物学の常識だ。マイノリティグループは大抵日の目を見ない。だが、あるときその選択肢を捨てなくてよかったと思うことがある。私のやっていることはその類のことなのではないか。

 弱者の負け惜しみと言われればその通りだが、しかし全滅を防ぐ役割を果たしているのだと思えば意味のある行動とも言える。残りの人生でこういう悪あがきを展開することは私の夢の一つである。

分断

 いろいろな局面で分断が起きる可能性があると言われている。国際的には超大国の利益が衝突し、世界が分断しつつある。その一国のアメリカでは階層や人種、主義などによる分断が表面化しつつある。一部の欧州の国が独立を目指しているのも分断の兆しだ。そしてこの日本にもその傾向は忍び寄っている。

 経済的な格差は日本ではまださほど顕著ではない。ただ、多くの人々が低賃金で働き、さらに非正規雇用といった不安定な立場にある。すると、経済力の差や雇用形態の差で分断が起こるかもしれない。世代格差もある。若者層の中には今の高齢層が享受してきた繁栄に比べて、自分たちの時代が低調であり、さらに高齢者扶養の責務まで押し付けられていると考える人がある。例の集団自決発言は極論であるが、慎まぬ本音が出たのだとも言える。

 分断を避けるにはどうすればいいだろう。少なくともいまの日本にとって分裂はマイナスの要素しかない。これまで享受していた国家としての市場をさらに小さなものすれば負荷をさらに付け足して走るようなものである。まずは社会的な意識を考える必要がある。スポーツに例えるなら団体戦なのだ。しかもこれは一人勝ちしても未来はない。

 我が国は戦争の反省から、国のために何かを考えることは避けてきた。偏狭な国家主義は危険だが、社会を単位に物事を考えることは見直してもいい。難しい問題だが、こういうものごとの基本的な考え方を見直すことが、今のこの国には求められている。

突き抜ければ

サボテンの魅力は?

 龍膽寺雄という作家のエッセイを読んだ。シャボテン(サボテンのことをこの作家はこういう)の愛好家で自分でもマニアだという。偏狂家ということである。ただこの偏狂も突き抜ければ芸術となることが分かった。

 戦中を生きた彼は焼夷弾攻撃を受けてもシャボテンへの愛情を失うことなく、焦土と化した街にでかけ、シャボテンを買い求めに行った話などもあった。劣悪な環境に耐えて生きるこの植物に、心情的な魅力を感じているようであった。その奇妙な形態がいいとか、稀に咲く美しい花がいいとかいう次元を超えているようなのだ。

 この人に限らず、一見理解しがたい偏愛を見せる人がいる。それも突き抜ければ人間愛というか、世界を俯瞰する哲学のようなものの見方ができるのかもしれない。そういう趣味ならば持っていたい気がする。

変身願望

 仮装ではなく本当に別人になってしまいたい気持ちになることがある。おそらく多くの人がそのように考えたことがあるのではないだろうか。そしてそれは不可能な願いなのだ。

 もっとも細胞レベルでは生物は常に新陳代謝をしており、一定期間で置き換わっているのだという。だからその意味では常に変身を繰り返しているともいえる。

 しかし、実感としてそれは変身願望には答えられない。それは自分の生の延長上にある加齢というものだからだ。変身するためには別の身体がいる。見た目も行動も全く別の者にならないと変身したことにはならない。

 年齢が変わったり、性別が変わったり、性格が変わったり、その組み合わせだったりするのが変身願望の理想的な完成形だ。現実には外見を変えることはある程度できるようだが、時間軸を往還することや、生命の神秘の領域となるとできることは限られる。

 擬似的に他人になりきることは文学や芸術の力でできることもある。昨今ならば仮想現実の中で他人になりきることもできるかもしれない。漫画やゲームがその役割を果たすこともある。でもこれはどこまでもバーチャルのことであり、少しも自分は変わらない。

 私はしないが化粧することは自分を他者からどのように見られたいのかを示すメッセージだろう。服の選び方とか着こなしの方法も実は変身願望の端緒に当たるのかもしれない。

 結局、自力では他の誰にもなれないことになる。よく考えれば自分の存在は他者の目によって認識されるのだから、変身などしなくても人によって自分は様々に変化しているとも言える。なんとも不思議なものだ。

自分以外にはなれない

There are times when I feel like I really want to be someone else, not in disguise. Many of us have probably thought about it. And it’s an impossible wish.

However, at the cellular level, living things are constantly metabolizing and being replaced over a period of time. So, in that sense, we can say that we are always transforming.

However, in reality, this is not an answer to the desire for transformation. This is because aging is an extension of one’s own life. In order to transform, you need a different body. You have to look and act like a completely different person to be considered transformed.

A change in age, gender, personality, or a combination of the three is the ideal completion of the desire to transform. In reality, it is possible to change one’s appearance to a certain extent, but the ability to travel back and forth through time and the mystical realm of life is limited.

In reality, we can change our appearance to some extent, but when it comes to time travel and the mystical realm of life, we can only do so much. Nowadays, it may be possible to become someone else in virtual reality. Comics and games may play a role in this. But this is all virtual, and it doesn’t change you in the slightest.

Wearing make-up, which I don’t do, is a message of how you want to be seen by others. The way you choose your clothes and the way you dress may actually be the beginning of your desire for transformation.

After all, you can’t become anyone else on your own. When I think about it, my existence is recognized by the eyes of others, so I can say that I change in various ways depending on others, even if I do not transform. How strange life is!

脇役の力

 演劇を観ているといろいろなことに気づく。主役を輝かせるのはその周囲にいるものの力であるということだ。

 もちろん主役本人に魅力がなければならないことは間違いない。しかしそれだけではない。個人で表現できることには限りがあるのだ。それを補ってくれるのが他の役者であり、舞台美術や衣装、照明などのスタッフなのだ。彼らがそれぞれの仕事を全うしたときに主役は光ることができる。

 舞台人でなくても同じなのだろう。私たちは誰もが主役であり、脇役やスタッフでもある。それを同時に演じている。観劇をするたびにそれを考える。

分かれ目

 卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞を分かれ目と誤解していた時期は長い。係り結びの法則を学んだあともこの歌詞に思いを致すまでには暫くかかった。

 ただ分かれ目説にもそれなりの説得力がある。卒業を気に人生の分節点を意図的に作りだし、現状からの脱却をはかるというのはむしろ卒業の意志にふさわしい。そう思って歌唱している人は多いのではないだろうか。

 慣れ親しんだ学舎と同窓の仲間との訣別を覚悟する点においては当たらずといえども遠からず。それぞれの思いで歌えばいいのかもしれない。