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メディアリテラシー

 改めてメディアリテラシーの重要性が問われる事態になっている。帰国しない議員を持つ少数政党はついに党是と関係する名前を捨て、アイドルグループをもじった名前に変えた。あらゆる方面に不親切であり、不誠実だ。

 この政党は分かりやすい目的を提示して集票しながら、結局はそれが目的ではなかったということだ。刹那的な話題で注目を集めるだけですべてが自らの利益のための活動だ。国会議員なのに国民には関心がなく、政党なのに政策より立場保全を優先する。どう見てもおかしい。

 この怪しさは大抵の国民ならば気づくはずなのに、なぜ議席を与えてしまうのだろう。それは既成政党への不満というだけでは済まない。この政党は公共放送制度への批判から始まり、それを女性の政治参加にすり替えつつある。この方法はいわゆる独裁政権の成立過程にも似ている。

 大切なのは相手を見抜く洞察力なのだろう。政治家となるとそれが全体の利益に関わる。芸能界のマイナータレントの動向とはそこが異なる。彼らが批判した放送というメディアや、逆に利用したソーシャルメディアというものの扱い方をもう一度考える必要がある。表現は自由だが、それを誠実なものか売名なのかは各自が判断しなくてはならないのだから。

再放送・リモート放送

 緊急事態宣言が長引いていることも影響してテレビ番組も収録ができなくなっているようです。国民的漫画である「サザエさん」も45年ぶりにストック切れによる再放送に踏み切ることが決まりました。大河ドラマもこのままでは本能寺の変にたどり着けないのではと危惧する人までいます。

 一部の番組やネット動画チャンネルなどは相互動画配信のサービスを用いたリモート収録を行っています。スタジオに出演者の数だけ置かれたモニターに個々に映し出されるタレントの自宅と思われる(思わせる)背景の登場人物たちがカメラ目線でものを言いあうという風景は異様なものです。この後語り草になるであろう21世紀初めの出来事の一つなのでしょう。個人的にこの状況でよくなったと思うのは出演者が他人の話をよく聞いて番組を進めている様がうかがわれることです。これまではなにか合いの手を入れるためにあえて話を分断するということもよくありましたので。

 再放送は過去の作品を見直すことができる良いチャンスなのですが、民放の経営的にはよろしくないようで、しかも変わってしまった社会状況や人物の事情を考えるとただそのまま流せばよいのではなく再編集も必要で、手間がかかる割には視聴率、広告収入が期待できないようなのです。

 危機感を扇動し、集団ヒステリー現象を助長するようなワイドショー的な番組以外でメディアの人々も努力していただきたいと考えます。人を安心させる力をもっているのもマスメディアの大きな特徴ですので。

集まるな

 コロナウイルスの流行に伴い最近は様々なイベントが中止されています。楽しみにしていた観劇も主催者側から中止の告知がありました。

 いまの社会状況は集まるなというなんとも面白くないものです。集まらなければできないことが封じられるということは人間の可能性の大半を捨て去ることに等しいのです。インターネットの普及で仮想的なつながりはできたとしても、私たちはメディアの介在を無視できるほど鈍感ではありません。

 とはいえ、この状況をなんとかしなくてはならないことは確かです。人との新しい連繋のあり方を模索していくしかありません。それを考える機会が与えられているのだと考えてみたいと思います。

脅威の価値

 北米大陸を中心にインフルエンザが大流行し多くの死者が発生しているようです。中国発の新型肺炎よりも致死率は高いようですが報道は控えめです。

 アメリカで流行しているインフルエンザはウイルスとしては新しいものではないようで、対策のワクチンも存在するようです。ただ皆保険制度が存在しないアメリカではインフルエンザにかかっても医療機関には行かない人が多いために流行が把握しにくく、対策が後手に回るようなのです。

 アメリカのインフルエンザは非常に脅威ではありますが、さほど報道されず、コロナウイルスばかりが注目されています。これはニュースの価値が実情以上に偏向しているといえます。事実をどのように伝えるのかはジャーナリストの責任でもあります。またそれを読み取る側の能力も試されています。

言論統制

 中国武漢で発生したと言われる新型肺炎の報道についてはいろいろと考えさせられます。目的は何かによって報道の中身がまったく変わってしまうということを改めて痛感しています。

 発生段階で新型のウイルスであり、大量感染の可能性があるとネットに書き込んでいた武漢の医師は当局でデマ拡散の行為により処罰されていたとのことが報じられています。これが事実ならば予防線を張る機会を人的に奪ったことになり、当局の判断ミスは重大です。デマによる人心の撹乱と、危険察知のどちらが重大かを考えなくてはなりません。中国は言論統制がしやすい政治体制にあることは知られています。ただ、これは共産主義国家でなくても起こりうるケーススタディになります。

 武漢から帰国した邦人に対する報道についてもマスメディアやソーシャルメディアの報じ方について注目すべき点があります。人権と公共の福祉とのバランスをどのように考えるべきか。この問題も臨機応変の判断が求められていきます。

 以前の新型インフルエンザ流行のときにも行き過ぎた報道が問題になりました。私たちは適切なメディアリテラシーと判断力とを持たなくてはならないようです。

騙されないための読解力

 日本の子どもたちの読解力が低下しているとは最近よく言われるニュースです。OECDが行う生徒の学習到達度調査であるProgramme for International Student AssessmentいわゆるPISAの結果に日本のメディアはかなり敏感に反応します。そして教育界もこの数値をかなり気にしているのは事実です。

 昨年参加した教員向けのセミナーのほとんどでこのPISAの話題がでました。これに対応する能力をPISA型学力などということもありました。今話題になっているのは2018年の調査で日本人生徒の読解力が参加国・地域の15番目となり、著しい低下と捉えられました。萩生田文科相もこの点について「判断の根拠や 理由を明確にしながら自分の考えを述べることなどについて、引き続き、課題が 見られることも分かりました」とコメントしています。そしてこの調査がコンピュータで行われていることなどから、コンピュータに対するリテラシーも関与していると判断されたようで、学校での一人一台コンピュータの実現を目標に掲げています。

 ところでこの「読解力」を測るテストはどのようなものかといえば、ある大学教授のブログなるものやアマゾンや楽天などで見られるブックレビューのような記事をを読んでそこに書かれている内容を読み取るものでした。詳細は文科省のページから読むことが可能です。

 ここでいう読解力は情報を正確に読み取るという能力であり、いわゆる行間を読むとか空気を読むというものではありません。日本人が一般的に考えている読解力とは少々次元が異なるものです。非常に基礎的で根本的な能力といえます。逆に言えばこれほどの読解力が低下していることに危惧を感じるのです。

 おそらくここでいう読解力は意図的に悪意のある情報源からうそを見抜いたり、勝手に誤解して誤った行動を起こしたりしないための能力のことをいうものと考えられます。その意味ではメディアリテラシーのレベルの話であるといえます。その点を踏まえておかなくてはなりません。

 ソーシャルメディアの普及で私たちは文字に接する機会が増えましたが、断片的で不十分な情報のやりとり、もしくは一方的なつぶやきに終始することが問題なのでしょう。相手の言いたいことを時には批判的にしっかり読み取り理解する能力は意識しないとつけられないのかもしれません。騙されないための読解力を馬鹿にしてはいけないのかもしれません。

 私のような国語教師にとってはこの段階の読みを読解力と呼んでほしくはないという気持ちがどこかにあります。ただ現実と向き合うことは大切なのでしょう。情報にあふれながらその処理の仕方をいまの子どもたちは実はきちんと教えられていないのかもしれません。

視点を変えれば

 スポーツの試合結果を知りたいときに、見出しだけを見ると同じ結果でも全く違ったものに感じることはよくあります。快勝なのか、苦戦なのか。接戦だったのか、消化試合だったのか。同じ試合でも見方が変われば全く印象が変わるのです。

 結果だけを見ると大差がついている試合は、一方的にどちらかが試合を優位に進めていたかのように感じます。ところが、実際に観戦した人に聞くと、点数には表れていないけれども実力差はそれほどなかったという感想があることもあります。得点と試合経過とは異なり、また見る人の印象がどこに重きを置くかによって印象は大きく変わるのです。

 スポーツだけではなく様々な場面でこのことは言えます。結果を数値で表すことはその現象の一面を表現しているのに過ぎないのであって、それがすべてではないということです。私たちは結果ではなく経過を出来事として認識します。そして経過の印象は視点によって異なります。同じものを見ても別のものを感じるのが私たちの本質であることを思い出さねばなりません。