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戦争文学

 戦争文学を読むときその目的が私の中でかなり変化してきていることに気づく。それは自分と戦争との距離が離れ続けていることと関係している。

 かつて戦争文学は史実の記録の一つとして読んでいた。いかに悲惨なことが行われていたかを参戦した人の実録として読んだ。史料や映像では伝えられない出来事や心情を残すものとして扱った。

 それがいつの間にかそうした史実に対する関心よりも、限界状況における人間のあり方を語る文学として捉えるようになっている。両者は似て非なる捉え方だ。戦争を限界状況を提示する設定の一つとしてしか捉えていないことになる。

 経験していないことを語るのは難しい。身近に戦争体験者がいれば少しずつその経験を共有することもできるかもしれない。ただそれも難しくなりつつある。

 戦争が単なる歴史上の事項として受け取られる時代に、何ができるのだろうか。私自身の問題としては若い頃に読んだ驚きや恐怖を読み取ることに遠慮をしないことだと考えている。

6月

 6月には祝日がない。ある意味、規則正しい生活ができる月だ。かつて日本人は働きすぎで仕事中毒だと揶揄されたこともあった。いまはそれは当たらない。働くことに疑問を感じる人々が少しずつ増えてきている。

 長時間働いても賃金が上がらない。株式投資したほうが儲かってしまうという現実を日本国民は苦々しく感じている。金が入る喜びは刹那的なものだが、仕事の達成感は得られない。儲かった金で社会還元できるならばまだいい。投資家の多くは私腹を肥やす以外に興味がないから、結局金が回らない。これはおかしい。

 長雨の季節に私たちは何かを考え直さなくてはなるまい。自分が豊かになるためには周りの人も豊かにならなくてはならない。がむしゃらに働いても誰かを幸せにできない。何よりも自分自身が不幸に思える。

 こういうときは少し視点を変えよう。雨はこういう時にはいい間になる。

若葉のグラデーション

 絵心は皆無だが是非描きたいと思うのがいまごろの木々の若葉である。実に繊細で複雑だ。すべてが異なりながら、どれも同じような形をしている。

木の絵を描きたい

 水彩でも油彩でも入門書を立ち読みすると、こうした木々の描き方の指南がある。その通りに真似てみるとなるほどそれらしい絵になりそうだ。ただ、これは木を描いたのではない。木を見て森を見ず、という言葉があるが木さえ見ないで木を描くということになる。

 しかし、本当に見たままの木を描くことはかなり大変なことだ。一つ一つ違う葉の有様をどのように描こう。描きながら刻々と変わる自分の感情をどう制御すればいいのだろうか。

 それでもいつかは自分の目で木を描くことを夢見ている。恐らく、他人が見たら何の絵か分からないものになるかもしれない。ただ、ゴッホの糸杉のように、それがどうであったかより、どう見えたのかの方が大切なのだろう。

 若葉のグラデーションを描くことを目標に加えることにしたい。

未来のインターフェース

 若い世代には信じられないだろうが、ある年代から視力が著しく低下する。次に聴力が来るのだろう。この境地は経験しないとわからないものがある。脳の回転も残念ながら鈍る。これを放置すると認知症になるのだろう。

 これを支援するシステムを完成すれば、大いに社会貢献できるだろう。場合によっては、格別の商機にもなる。だから言いたい。若者よ年寄の言葉を聞け、そこにチャンスが転がっていると。

 これからは高齢化社会になる。高齢者を引退させてはならない。それは若い世代にも不幸をもたらす。そのためには高齢者用のインターフェースを考えるべきだ。爺ちゃん婆ちゃんに現役の消費者になってもらえれば若者たちの活躍の場が確保できる。

 そして実はこの現象は世界のあちこちで起こる。その時にノウハウを輸出すれば次世代のGAFAも夢ではない。日本の若者に期待している。

学習効果と効率は違う

 教育現場においてICTをどのように使うのかはまだ答えが出ていない。使わない訳にはいかないという世情の流れに、教育界が流されると陥穽に陥る。

 学習する過程において、とりわけ初等中等教育においてはやはり自分の脳細胞を活性化する活動の方がいい。効率や完成度を犠牲にしても自分で考えさせることを重視するべきなのだ。それができて情報機器の活用ができる。

 コンピューターの操作方法を教えなくてはならないというのは私たちの世代の基準だ。今のインターフェースは昔より遥かに分かりやすく、それほど知識はいらない。そんなことはあとからでも間に合う。大切なのは自分で問題解決の糸口を見つける試行錯誤の経験値を高めることだ。

 情報の整理や記録に関しては早くから始めてもいい。これはノートをつけることの延長にある行為だからだ。またなくてはならないのは思考のツールとして情報機器を使うことだ。これは大学生になってからでいい。順番を示すことが教育関係者の責務になっている。

即時性

 現代の人々の気質として即時性の偏重がある。すぐに結果が出なければやる気にならないということだ。答えが出ないものは無価値とさえ考える。いろいろなことが即座に実行できるようになったために、結果を求めすぎる。

 私のような世代にとっては、すぐに結果が出るようなことはレベルの低いことだった。本質的なことはなかなか形にならないものであり、具現化するために様々な努力をすることこそ人生の要諦と考えた。

 だが今は違う。結論が出ないものは価値が低いと考えられがちだ。超高速のコンピューターに途中の計算をさせ、結論を急ぐ。結論の出ない問いはそもそも発問が間違っていると考える。考えてみればとても窮屈な思考回路だ。

 このような性急な環境では状況対応型の考え方しかできない。何が真実かとか、善悪の判断とかそういうものは後回しになりやすい。貧困な思想しかできない。

 恐らく私のような時代遅れの人間に出番があるとすれば、日々の判断にあくせくせず、少し引いて考えることを提案する役になることだろう。失笑や嘲笑をものともせず、真実を探る尊さを示すしかない。

 そうすればわずかに数人が気づくかもしれない。答えがあることばかりが良いのではない。むしろ容易には解答が見つからないことの方が価値が高いこともあるのだと。

反面教師

 教師と人から呼ばれる職に就いている私にとって反面教師という言葉は決して名誉な言葉ではない。だが、私は反面教師にもならなくてはならないと思っている。

 私の場合、人の範たる存在になることを目指して教員になったわけではない。自分の好きなことを追求していくうちに自然と教員になってしまったというのが正解だ。この件については様々な言い逃れを考えているのだが、真実を簡潔に述べるならば先に述べた通りの事実となる。私のやりたいことがたまたま教育と親和性が高かっただけのことである。

 教師になりたいと思っていなかった私が教師になった結果、かなり中途半端な存在になってしまった。本当は成績なんかどうでもいい、自分のやりたいことをやれと言いたいのに、小手先の点数を上げる技術ばかりを話すようになってしまった。それで進学率が上がるのだから他人からは褒められるし、成績が上がらなければ叱責される。よく考えてみればそれは本人次第だ。生徒を騙して名門大学に入れたところで、本当にその生徒は幸せになれるのだろうか。エビデンスなど何もない。

 この煮えきらないところはきっと生徒には見破られている。なんであなたは他の先生とは違って成績なんてどうでもいい好きなことをやれ、と言いながら、他の教員と同じようなテストを課すのか。そして点数にこだわるのかと。この弱みについては私は何も反論できない。敢えて言うのならば、人生は必ずしも思い通りには進まない。ときには折り合いをつけることも必要なのだと。

 反面教師として自分を見てくれるならば、それは私の存在価値があったということになる。悲しむ撃破それに気づかない生徒がいることだ。世の中はすべて理想通りに進んでいると信じて疑わない人物を生み出しているとしたならば、それは大きな失敗になる。

 いかに自分がメッセージを伝えられるか。そして、反面教師としての役割を果たせるのか。それが大切なのだろう。

怒り方の色

 最近、よく怒られる。しかし、昔ならメンタルをやられたはずなのに今は気にしなくなってしまった。それにはいくつか理由がある。上司に怒られることが多い私のような方のためにやり過ごす秘訣を伝授しよう。

 大体怒りの原因の多くは本人の立場保全のためだ。部下にそのようなことをやられたら私が困る。要約すればそういうことだ。管理職ならば、部下の失敗をカバーするべきなのにそれを放棄して叱りつけるだけだ。これを見透かせるようになってから、叱られてもなんともなくなった。失敗は素直に詫びるがそれで許してくれるなら、理想的な上司だ。さらに愚痴を言ってきたら、心の中で笑っている。この前はそれを見破られてさらに怒られ、さらに笑った。

 管理職にはなったことがないが、過酷な職種だと思う。すべての責任が問われるのだから。でも細かいフラストレーションを部下にぶつけているようでは先がしれている。そもそも管理していない。

 私はそれが分かってから叱られるのが楽しみになった。度量を見透かす機会だからだ。ならば理想的な上司はどうすればいいだろう。それは怒りの色のグラデーションを多彩に操ることだろう。起こっていることがあなたのためだとしっかり伝えることなのだろう。私ごときに見透かされることがないように。

 怒られてばかりの平社員の皆様に言いたい。上司も辛いのだ。人を叱るスキルもないままに職を与えられてしまった。少し耐えればあなたがこの職に就ける。その時に思い出してほしい。怒り方、指導の仕方の多彩さを心掛けよう。それができれば今の上司を凌駕できるはずだ。

説教は快楽ではない

 私は生徒の皆さんには分かったふりをしてほしくない。そういうもんだという不文律のようなものは確かにある。ならぬものはならぬという毅然とした態度も必要だが、単なる押しつけではきっと心には届かない。理由もわからず押し付けられたルールは理解されず、同じミスを繰り返す。

 教員の方も単に規則だからとかモラルやルールを゙持ち出すのは控えたほうがいい。その説明を試みるべきだ。理不尽な問題もあるが、それもともに悩むべきなのだ。これはとても骨が折れる行為だが、やるしかない。

 去年流行った歌に説教は快楽という歌詞があった。これは根本的に間違っている。人に自分の考えを伝えるのはかなりのエネルギーを要し、疲労困憊する。あの歌にあるオトナの僕がした説教とは恐らく教える行動ではなく、自説の押しつけのことだろう。そのアイロニーが滑稽に結びついている。教員の立場から言わせると説教は身を削る行為であり、快楽の対極にある。

 何かを伝えることは受け入れる側との相互行為により成り立つ。それなりに時間と労力がかかる。生徒の皆さんには下手な忖度は不要だ。話し合おう。矛盾に満ちたこの社会のあり方を。

旧世代らしく

 あまりに多忙なときはやることが機械的になっている。予め決めた手順に従えはうまくいくことが多い。ただこれには達成感が伴わないのが問題だ。

 大量の作業を成し遂げたという達成感ならある。しかしこれならば自分でなくてもできたはずと考えると虚しさが漂い出す。機械の歯車になることを潔しとしない自我が立ち上がる。

 効率を上げることとやり甲斐を感じることとは必ずしも一致しない。仕事がどんなに早くてもああはなりたくないという同僚はいる。あれでは機械と同じだ。何が面白いのだろうなどと考えてしまう。

 恐らくこれは私の偏見だ。仕事が早く何も考えずに済ませられるのは現代人が求められている資質の一つではないか。そのコンピテンシーすら人工知能に売り渡そうとしている。その哀れさに気づかないことに我慢できるのは一種の才能だ。

 私のような旧型人間はこの効率重視の世の中でうまく立ち回るしかない。仕事の大切な要素を諦める代わりに、浮いた時間で思い切りアナログなことを展開しよう。アナログという言葉を想起した時点ですでに毒されている。無駄な時間をかけて話し合い、冗談を言い合おう。幸いまだそんなことをしていても排除されることはない。ならば思い切り旧世代らしく振る舞うしかあるまい。