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作文力

 どんなに拙くても自分の言葉で意見を書く練習は必要だ。AIの時代だからこそ作文力がものをいう。

 じっくりと自分の意見を温めて整理してから文章にするという経験が生活から失われてきている。予め用意された型を組み合わせ、それなりの文書を作ることはできても、型のない新たな局面における文章はなかなか書けない。

 ChatGPTの生成する見た目はいいが内容がおかしい文章を冷笑する前に、己の文章力を反省しなくてはならない。コンピューターのように潔く変な文書を書く方がやはり遥かに勝っていると言わざるを得ない。

 私は人に作文を教える立場にあるが、まずは自身の文章を見直さなくてはなるまい。このブログは20分あまりの通勤電車のつり革に捉まりながら書いているので、熟慮がなされていない。これでは真の文章力は上達しないのだろう。

 どうしたら文章の作成力を向上に貢献できるか。それが私の課題の一つである。

自分で書いたのに

 なんでも記録される時代である。そしてデジタル化されたものはなかなか消えない。もちろんこれは存在し続けるということであって、価値が変わらずに続くことではない。だから、存在していてもアクセスしなくなれば実質なくなったのと変わらない。

 自分が過去に書いたものが今でも検索すれば読める。学生時代に書いた多分にエッセイのような論文もいまでも変わることなく読める。その後、いろいろな方がそれを読み、中には引用してくださっている方もいる。申し訳ないが私の論文は間違っていた。部分的に材料として使うならば使えるところもないではないが。

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 その自分で書いた文章を改めて読むと、とても自分が書いたものとは思えない所がある。つまり、書いた意図が思い出せないのである。批判的に若いころの自分の文章を読むことができるのは、すでに書いた自分と今の自分が相当違うからなのだろう。論文を書く仕事を辞めてからはこのように何かに自分の考えを残すという機会がなくなった。ただひたすら毎日を消費するばかりだ。少しは人のためになっていることを願うのだが。

 自分で書いたのに自分の文章とは思えない。こういう経験はこれからもあるのだろう。私は毎日このブログを書いているので、過去の自分にさかのぼることができる。そしてさかのぼるとやはり自分のものとは思えない文章に出会う。人は変わりながら生きているのだ。だからこれを恥じることはない。そう考えることにした。

700日連続投稿

 WordPressの通知で今日で700日連続投稿と分かった。この通知が始まる前から書いているのでもう少し長い。もはや日課となっている。専ら自分ために書いているから、読者も増えないし、それを望んでもいない。広告収入も増えない。でも、続けていくだろう。書けなくなるまで。

有言実行

 有言実行という熟語の意味からは逸脱するがこの考え方は結構役に立つ。まず言葉にすることの大切さを見事に言語化しているからだ。

 とにかく自分が達成したいことを言ってみる。ここまでは無責任でよい。いろいろなところに吹聴するといい。するともうやるしかなくなる。自分を追い込むことができる。恐らく達成できるのはその幾分かに過ぎないなもしれない。でも、何もやらないよりは遥かにマシだ。

 まず理想を語る。思うのではなく、誰かに語るのた。語る相手がいない場合はブログに書くのでもいい。(大体このブログはそのためのものだ。)リアクションがあれば、言ったことをやらざるを得なくなる。そのうち、自分の目標に近づいていく。

 大言壮語は悪い意味で用いられる。しかし、大言しなければ何も起きない。私はこのブログもそうだが、リアルな生活でもおおぼらを吹いて生きることに決めている。

翻訳されやすく

 長く続けているといいこともある。このブログは私の日々の雑感を書き連ねているので、そんなに役に立つ情報はない。あくまで一人よがりの考えが並んでいる。それなのに時折、海外からのアクセスがあり、リアクションをいただけることもある。うれしいことだ。

 その方のサイトを訪問すると当然ながらその国の言葉で書かれている。英語ならなんとか読めるが、ロシア語やイタリア語、スペイン語になるとお手上げである。そこで機械翻訳を使うことになる。

 ラップトップのパソコンでブログを読むと、翻訳の提案が飛び出すので、それに従うと大体の意味は分かる。明らかにおかしい日本語は推測で解釈する。細かいニュアンスは読み取れない。これを割り切ればスペインの教育関係者のブログも読める。

 自分の日本語が機械翻訳でどのように訳されているのか心配になってきた。私の文章は多分に生硬、不明瞭なところがある。故意に曖昧な言い方をすることもある。これを訳せるのだろうか。

 そこで考えた。ときにはやさしい日本語を使い、極力機械翻訳でも誤訳されない文章を書くべきではないかと。今日の文章などはそれに当てはまるまい。本当は英語、イタリア語などで書ければいいにこしたことはないが、せめて分かりやすく書くことにしようかと思う。そういう文を書くときは断りを入れることにしよう。

 その前に誤入力、誤変換をなくさなくてはなるまい。老眼にはきつい作業であるが。

短時間集中

 まとまった学習時間が取れない場合、十数分の短い時間でも積み重ねれば効果はあるという研究があるそうだ。やってみる価値はある。

 集中的な時間が取りにくい要因はいくつかあるが、多忙はその一つだ。そういう毎日を過ごすと仮に時間が空いても学習に集中できなくなる。これは自分の側の問題だ。ほかにも環境的な理由や健康状態とかいくらでも訳はある。

 そういう場合は、時間を割り切って短くしても継続することが大事なのだという。習慣化できればそれなりの効果はあるのだとか。

 私の場合は通勤電車の中でこのブログを書いている。使える時間は数十分、着くまでに仕上げようと思うからこそ続けられているのかもしれない。

予祝として

 新年にあたって大ぶろしきを広げておこう。いろいろな人が言っている。言葉にすればそれが事実を引き寄せると。本当はどうなのか分からない。日本の民俗のなかには予祝儀礼というのがある。雪深い地方でまだ地面が真っ白い中で田植え祭りをし、収穫のまねごとをし、豊作になったと演技する。それによって稔の神が感化され、本当にその秋の収穫が約束されるというのだ。科学的にも呪術的にもどうも大ぶろしきは大切らしい。

 いつも書いているが新しいことを始めたいと思っている。関心があることは教員の支援システムを作るための準備だ。教員不足の地域が増えてきたり、人材不足のための教員のスキルの低下がされてきている。若い世代の教員が自分の仕事に専念し、より高いスキルを獲得できるような仕組みを考えていかなくてはならない。それを学習していく初めの年にする。

 コンピューターを使う年にしたい。何をいまさらといわれそうだが、はっきり言ってこれまでは使うのではなく使われてきた。よく訳も分からないうちに便利だというものに触れ、実はそれほど必要でもない情報に振りまわされてニュースや動画サイト、さらにはソーシャルメディアに接してきた。これからは自分にとって必要なものは何かを考え、受信だけではなく発信の手段にしていこうと考えている。このブログの位置づけは、今まで通り雑記的に思い付きを書いていくものだが、このほかにもいろいろな作品を作成し公開していく。

 皆さんの考えかたにも触れていきたい。WordPressでリンクしていただいている方のブログは常に読ませていただいている。自分にはない考え方をしているブログやサイトは特に注目していく。今の関心は日本の文化がどのように捉えられ、世界的に理解されるようにしていけばよいかというころだ。自分でモノを作っている方、音楽や絵画の芸術活動をしている方、地域の美しさや問題点を写真や文章で紹介している方の発言には特に注目している。

 仕事の効率化も課題だ。退勤制限時間より1時間以上前に帰ることを目標にしたい。この目標自体が情けないがまずはここからだ。その一時間で別のことを学ぶ。あるいは論文なりブログなりを書く。

 ほかにもいろいろな風呂敷を広げたいが公開するのはここまでにする。後は手帳の裏に書いていこう。そして実現したら得意げにここに書き連ねることにする。皆さんは私が大噓つきではないかを見守っていただきたい。

音声入力

 今回は音声入力を利用してブログを書いている。 音声入力の精度はかつてと比べるとかなり良くなっている。 ただ日本語には同音異義語が多いために、なかなかうまくいかないことも多い。

 音声入力をしている場面はかなりおかしい。スマホに向かって独り言を言っている。 かなりな変人だ。それでもこれからはそういう場面に多く出会うだろう。

 ここまでの入力で、同音異義語や句読点が出てくるたびに引っかかっている。でも、それ以外の入力は比較的うまくいっている。私のようなだみ声で滑舌が悪くても入力できている。結構これは使えるかもしれない。

 音声入力で必要とされる能力に文字が正しいかどうかを見定める漢字力、表記力がある。この意味において漢字のテストの役割はまだ終わっていない。音声入力は意味のつながりを考えておらず、単に可能性の高い変換をしているのに過ぎないのだ。

 もう文字を覚えなくてもいいとか文章は機械に任せるとかそういう考えは今のところ通用しない。今後、さらなる技術の飛躍があって、音声入力がほぼ完璧になされるようになったら、次は話したまま、文章として成り立つように文章が組み立てられる能力が必要になるのだろう。

 どこまで行っても国語能力が必要であり、そうである限り文字を書き文章の構成を考える学習は必要であり続けるはずだ。

AIブロガー

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 人工知能で文章を書くことはすでに出来る。いくつかのキーワードを与え、それを結び付けるように指示すれば文章を作成してくれるらしい。私の駄文などすぐに抜かれてしまうはずだ。すでに抜かれている。ただ、いまだにAIは意味のレベルまでの理解はできていないようだ。そこに人間の(私の)生き残る価値がある。

 コンピュータにできることは大量のデータからある言葉を使うときの用例を瞬時に検索し、その用法を選び出して、ほかの用語との組み合わせを再び検索によって選び出して合成することなのだろう。一見意味を考えているかのように思えるが、扱っているのは過去のデータであり、言葉に含まれている意味を考えているわけではない。しかも、私のように偏屈でなおかつ発表している作品がほとんどない人間の文章をAIに担当させることは難しい。出来上がるのは私の文章ではなく、平均的なものになる。

 平均的なものがおかしいかといえばそうでもないらしい。顔のパーツのデータを複数集め、その平均をとって合成すると結構な美男美女になる。誰でもない平均顔は意外といけている。文章もそうで一見理想の文章ができているように思える。

 でも、それは自分の文章からは程遠い。AIに自分の代わりをさせることはできない。自分の文章を書いてくれていって頼むと、ものすごく平均的なものを作ってくる。それがどんなにしゃれていて内容が良くても私の文章ではない。AIというのはそういうものらしい。だから、我々が文章を書くことは大切な営みだし、続けるべきなのだろう。

 このブログはAIで書きました・・・はずはない。下手すぎる。

アクセス解析から

 私のブログは何も目新しいことはないが、毎日何か書くという点だけは続けている。内容よりは継続に重点を置いていると言えるかもしれない。

 アクセス解析機能を使って私のブログの訪問者を調べてみると、日本だけではなくいろいろな国からアクセスしていただいていることが分かる。もちろんこの中には意図的に他国のサーバーを通してアクセスしていただいている方もいるはずだ。WordPressのアクセス解析もフラッグカウンターの統計も参考にさせていただいているが、事実かどうかは保留している。

 それでもlikeをつけていただいた方のブログを訪問すると、英語だけではなくロシア語やイタリア語、そしておそらくスウェーデンの言葉と思われる言葉でブログを書いておられる。私のブログはほぼ日本語で書いているので、それらの国の方はどのように読んでいただいているのか分からない。私は英語を読むことはなんとかできるがその他の言語はまず無理だ。ロシア語のブログはネット翻訳でなんとか読み取れる。イタリア語も出来たつもりになっている。しかし、この翻訳が本当にあっているのかという検証はできていない。

 このようにかなり怪しいのだが、それでも海外のブロガーの文章を読むのは楽しい。素直に同意できるものもあれば、意味が分からないものもある。そのどれもが語りかける。ものの考え方は多様で多彩だ。自分の周囲の状況だけで物事を判断するのはおかしいのだということを。