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応援の仕方

 球場に歓声が戻ったのは大変うれしいことだ。WBCの中継では久しぶりに声を出しての応援風景も見られた。鳴り物入りの応援は日本の野球の特徴であり、野球の魅力の一つになっている。

 ただ、私たちは無観客試合の中継を通して打球音や、選手たちが味方に檄をとばす声などを聞いてしまった。それは野球のもう一つの魅力を思い出させてくれた。このスポーツはかなり大きな音がするスポーツであり、またチームワークが大切でかなりメンタルな面が強いということを。

 実際に野球をしている人ならばこのことは知っているはずだ。ただこれまでテレビを通してしか試合を見たことがない多くの人たちにとって、選手の声を直接聞いたり、グラブに吸い込まれるボールの音などは知りようもなかったはずだ。

 華やかな応援と打球や捕球の音を聞く楽しみはどのように共存できるだろうか。私は新たな応援スタイルが生まれることを期待している。それは投手が投球モーションに入ったら鳴り物をとめることだ。ボールがミットに入るか打ち返されたらまた盛大に応援すればいい。

 このスタイルが定着すれば野球はもっと魅力的になる。応援する人は常に選手の動きを見ていなくてはならないし、ともに試合を盛り上げるという自覚が必要になる。単なる自己満足ではなく、選手の気持ちを盛り上げる真の応援になるはずだ。プロ野球でそれができればアマチュアの試合も変わるはずだし、海外でも模倣するリーグが現れるかもしれない。

チェコに球場を

ワールドベースボールクラシックは1次ラウンドが終わった。韓国の敗退は残念だが、いい選手が多いことは分かった。いずれ日本でもプレーしてほしい。一番注目したのはチェコ共和国の活躍である。プロ相手にあそこまで戦えるとは末恐ろしい。

チェコは野球をする環境には恵まれていないようだ。規格通りの球場がない。ならばこれを縁に球場を造る手伝いを買って出るのはどうだろう。何も始めから日本のプロ野球の球場ほどの設備はいるまい。大きさの規格が国際試合かできる規模にすればいい。資金援助が難しいならば、技術上のノウハウを提供するのはどうだろう。欧州ならば一国に1球場あれば国際試合ができるはずだ。

 設備さえ整えばすぐに強敵になるはずだ。そんな可能性を感じる試合だった。

ピッチクロック

 アメリカのプロ野球、MLBでピッチクロックというルールが加わった。これは投手がボールを受け取ってから走者がいないときは15秒以内に投球しなくてはならないというものだ。時間短縮とテレビ等での視聴者拡大のために導入されたようだが、いまのところ改悪のように思える。

 野球が時間がかかるスポーツだということはかつてから言われてきた。ほかの団体球技と違って試合時間の大枠が決まっていないため終了時間が読めない。だから、放送メディアにとっては厄介で扱いにくかった。サッカーやバスケットボールなどある程度終了時間が読めるスポーツにはそれがない。

 投手がボールを受け取ってから、捕手から送られるサインを確認し、自分の意見と照合して投球する。場合によっては気の短い打者をじらす方法をとるため、捕手が待てのサインを出すこともあるそうだ。これで時間が使われる。野球が好きな人はこの駆け引きも含めて楽しむことができる。相撲でいう立ち合いの駆け引きだ。わずかな間を使って相手の調子を狂わす。

 打者もそうだ。わざとゆっくりと打席に入ることで投手の調子を狂わせる。今回のルールでは8秒という制限が設けられ、プレシーズンマッチで遅延行為のため三振という例がすでに生まれているという。だから打者側からの駆け引きも限られてくる。

 ルール変更があるならば、過去はよかったなどと言っていられない。高校野球のようにテンポのいい試合にも私たちは慣れているので、プロがこの方法をとっても違和感はない。ただ、チームが考え、観客に考えさせる戦略的なスポーツである野球の醍醐味が減少したことには間違いない。もっと頭の回転を速くする必要があると言われればそれまでだが、情報処理優先病はこういうところまで侵食してきているのかと考えてしまう。

 むしろ、チームによる作戦を遂行する際に監督の指示をいちいち伝達することはできなくなるかもしれない。フィールドに立っている選手が即座に判断し、次のプレーを決めなくてはならなくなる。組織の在り方が変わる可能性もある。

 コロナの影響で制限されていた様々なことが変わったスポーツ界であるが、これもその一つなのかもしれない。日本のプロ野球でも早晩これに習うことは明らかであり、これから野球選手になりたい皆さんには指示待ちではなく、自主的な思考が必要になると考えていただきたい。

勝ちましたか

勝てました

 ワールドカップでサッカー日本代表がドイツに勝利したという。ほとんど攻め込まれていた中でわずかなチャンスをものにしたらしい。今回はあまり関心が持てないままでいるので朝になって知った。

 それを教えてくれた同僚はサッカーにまったく興味がない。それなのに教えてくれたのは夜中、近所の人がやたらと騒いでいたからという。その歓声は明らかに勝利を表していたと言うのだ。

 今回の大会はカタールという特殊な場所であることや、ドイツのブンレスリーグに所属する日本選手が多いことなどいろいろな好条件が重なったのだろう。選手諸君には賛辞を送りたい。それにしても中継を見て大騒ぎすることは少々迷惑だが、世界が回復しつつある一つの現象として喜ぶべきなのだろう。

客席の距離

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 北海道日本ハムファイターズの新しい本拠地になるエスコンフィールド北海道のファールゾーンが規定違反であるということが分かった。今後是正するということだが、この問題は別の視点から考える必要がある。

 ホームベースからバックネットのある場所までの距離が3メートルほどたりないという。3メートルといえばかなりの距離だ。面積で考えると相当な広さになる。野球の試合のなかでこの空間で活躍するのは捕手であるが、彼らがファウルフライをとることでアウトにする確率を相当減らすことになる。一方、ワイルドピッチやパスボールの後の処理はこの部分の面積が小さいほうが有利だ。攻撃側にも守備側にも影響があることになる。

 捕手出身の解説者にはファウルゾーンが狭くなることに反対な人がいる。パスボールの時のリスクはあるが、それよりもファウルフライを捕ることで活躍できる機会の方が多い。ファウルを打たせることを配球の要素にしている捕手ほど、面積が狭いのは困るのだろう。投手にとっても同じだろうが、中にはあまりファウルゾーンが広いと距離感をつかみにくく投げにくくなるという意見もあるようだ。

 選手にとっても様々な意見があるが、プロ野球として考えなくてはならないのは観客の視野性と収益の問題だろう。客席とバッターボックスの距離が近いほうが、観客の満足度は上がるはずだ。コロナによる無観客試合で分かったが、打球音や選手の声などが聞こえてくるのは新鮮だった。近いほうがいいと言えそうだ。さらに、グラウンドを狭くした分だけ客席が確保できるのなら、高額な座席設定をして収入を上げることが可能だ。プロである以上、この点は見逃せない。

 アメリカの球場はこの規定は推奨扱いになっている。エスコンフィールドの失敗も球場設計をアメリカの会社に委託したことによるらしい。試合を見せて金を稼ぐプロ野球に特化するならば、日本の規定を変えるべきではないだろうか。そんな視点を与えてくれたのが今回の設計ミスの効用かもしれない。

国際チームも

国旗のない国際大会もいいのでは

オリンピックは国と地域の代表という枠組みが大前提である。それには意味があるが、そうでないものも対極にあっていいのではないか。スポーツのあり方を考えると別の可能性がある。

チームスポーツは一体感とか連帯感が必要であるから、同じ共同体の成員で組むのが自然だろう。しかし、それが国籍である必要はない。国際大会が盛んな競技ではむしろ国を超えた仲間意識が生まれる可能性に満ちているはずだ。ならば、そのような試合をもっと盛んにするべきではないか。

国威発揚のために国家が税金などで援助している事実がある。マイナースポーツは特にその依存度が高いようだ。国を後ろ盾にしないと試合に出られないという事実があるのも確かだろう。それを克服するためにはどうすればいいのだろう。

チームごとにスポンサーなりサポーターを獲得する必要はどうしても出てくる。企業名の入ったチームになるかもしれない。一定のルールは必要だ。

運用方法には多くの課題があるが、国際チームで競技される試合が実現すればスポーツの新しい局面を見ることができる。人類平和のためにも貢献するかもしれない。

栗山監督

北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督が今季限りで引退するという。残念だがこれがプロの厳しさなのだろう。

栗山監督は選手時代、神宮球場でその活躍を目にしたことがある。プロ野球選手としては小柄であるが、全力でプレーをする姿は魅力的だった。外野の守備ではしばしば身体をはったプレーをしていた印象がある。スワローズはその後、広沢、池山という好打者や古田という司令塔を得て快進撃をすることになるが、それ以前の神宮球場を沸かしていたのは彼の献身的なプレーであった。

持病のために満足な選手生活はできなかったようだが、解説者として冷静で理論的な分析を行い、ファイターズの監督になってからは選手の個性を生かした起用でチームをリーグ優勝や日本一に導いている。コロナウイルスで自粛生活を余儀なくされた子どもたちに向けてYouTubeを使ってなぜか「論語」などの漢文の話をしていたのも印象的だった。

多くの人が語るように栗山監督の功績の一つは大谷翔平を投手野手の二刀流として使い続けたことだろう。個性を大切にする選手起用の典型と言える。斎藤佑樹が開花できなかったことや、中田翔の暴力問題など最近は残念なことが続いたが、栗山監督が日本プロ野球の大切な指導者であったことは変わらない。

今度はどんな場所で私達を楽しませてくれるのだろうか。

スケボー

 オリンピックで日本人選手がメダルを取ったことでスケートボードが注目されている。以前から公園の階段を曲芸のように降りていく若者はいたが、それが国際競技になっていたとは知らなかった。子どもの遊びかと思っていた。

 バックトゥザフューチャーという映画に未来のスケートボードの様子が特撮で撮られていた。未来と言ったが映画の中では2015年の設定で、すでに過去のことになる。映画のスケートボードは空中を浮遊し、ホバーボードという名で登場する。路面はわずかな足の動きで前進するが、水面では推進力がなくなるという設定であった。もう6年も過ぎてしまったが、ホバーボートが水上で立ち往生したというニュースはまだ聞かない。

 オリンピックの競技を見ると階段の手すりにボードを当ててどのように降りるのかを競うものであった。さすがに重力に抗うことはできない。着地までにどのように振舞うのかで見せるスポーツになっている。もはやおもちゃではない。

 この先のオリンピックではホバーボードの競技が行われるのだろうか。それはそれで見てみたい気がする。私は間に合わないかもしれないが。

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スポーツの境界線

主に女子のユニホームを巡って論争が起きている。露出度の高いユニホームをなぜ着なくてはならないのかということで、差別問題にも発展しそうな勢いもある。

ビーチバレーのユニホームがビキニスタイルなのはその方が競技にとって好都合だからかと思っていたが、どうもそうではないらしい。規定がありそれ以外の選択はできないと聞いた。体操ではドイツチームが長袖タイプのユニホームで登場した。これには規定はなく、奇抜でなければ長さは無関係とのこと。身体の美しさを競う芸術性競技においては見せ方はかなり大きな問題になる。今回の選択はチームとして大きな決断だろう。

 陸上競技とりわけ短距離や跳躍系のスポーツではかなり露出度が高いユニホームが使われている。空気抵抗の低減のためという。おそらく何も着用しないのが記録上は良いのかもしれない。

 スポーツが純粋に競技性を追求すると、ユニホームのあり方は無関係となる。それをある方面に固定するのは文化的な問題だろう。日本の国技の中には文化的な要素を強く持っているのものが多い。だから、柔道では礼儀や整容が重んじられ、青い道着には抵抗感を持つ人が多い。大相撲では女性は土俵に触れることすら許されない。

 国技がスポーツ化してさらに国際化したとき、文化的拘束は少しずつ解放される必要がある。何を着るかと言うことに関しても変わらねばならない段階があるのかもしれない。

非国別対抗

 オリンピックで選手の活躍が報じられるとさすがに心躍るものがある。劣悪な環境の中、努力を重ねた成果を出せた選手は素晴らしい。また、たとえ勝負では負けても大きな試合に出られる事自体が称賛すべきだと考える。

 その上で、最近しばしば考えるのはオリンピックはもはや国別対抗にする必要はないのではないかということだ。メダルをいくつ獲ったかということに国力を重ね合わせる時代は終わっている。そうでなくても一部の恵まれた環境の国や地域の選手が勝利しても感動は半減する。

 ならば、もう国対抗はやめて別の枠組みを考えるべきではないか。クラブチームのような形態も考えるが、これも商業的な力関係に左右される。多くのプロスポーツで力の不均衡が起きてしまっているのはそのためだ。ならば、何がいいだろう。原則として個人の自由でチームを組めるといい。もしくは皆で金を出し合い、ほぼ同じ条件でチームを作って公平性を担保するのもいい。

 実際はそうかんたんには行かないだろう。それでは誰がスポンサーになるのだ。選手やチームにどのように思い入れを持つのか。帰属意識のないスポーツなどそもそも存在するのか。難問は色々あるが、非国別対抗の枠組みを考えてもいいのではないか。例えば7月生まれチームのようなものを考えている。笑うことなかれ。