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GPTを超えろ

 教育現場においてChatGPTをどのように扱うのかは大きな問題になっている。現時点でもかなり自然な文章作成ができるレベルにあり、本人作なのか生成された文章なのかを見分けることは難しい。

 恐らく始めは使用禁止という指導で済むのかもしれないが、その縛りは長くは続くまい。見破るための方法も開発されるだろうが、文章作成能力を育成するのならばそういうことをやっても埒が明かない。むしろ積極的に活用せよという局面はすぐに来るだろう。

 その場合、大切なのは何が理想的な文章であるのかを見抜く評価力だろう。コンピューターが書いたのだから正しいに違いないなどと考えていると大きな間違いに陥る。次の文章教育は何が理想的な文章なのかを判断する能力の育成ということになるだろう。

 そのためには手本となる文章を徹底的に読み込むことが必要になる。これは機械ではできない。まだ国語教師がやることはたくさんある。

速度制限

 いつの間にか通信の量が増えてしまい、いわゆるギガ不足状態になっている。月末まであと数日なのでこれで持ちこたえることにした。メール以外の殆どが使えない。

 原因はクラウドへの写真のバックアップにモバイル通信の制限をかけていないことだった。これには設定で解決できる方法があることを知り、早速始めた。来月からはそういうことはないだろう。

かつてのモバイル機器に比べて通信にかかる容量は飛躍的に増えている。ネットは格安プランでいくなどの変更が必要なのかもしれない。画面より本を開けという天啓と考えることにしよう。

画像生成

 AIによる画像生成の技術は見るものを驚かす。最近はキーワードを入力するだけで絵画や写真のように見えるものをごく短時間で作り上げる。知らない人が見れば人が描いたものと見間違うほどだ。

 おそらく私たちの画像認識というものはある程度パターン化している。それをコンピューターは膨大な映像データベースから抜き出し、それに近いものを組み合わせてくるのだろう。組み合わせの仕方にもある程度の型があるから、それを使えば自然に見える絵になる。チャットするプログラムと基本的には同じなのだ。だから、ときには奇妙な絵になってしまうこともある。

 今のところは、絵画や動画生成を瞬時に行うことは難しいようだ。それが可能になれば、言語プログラムと作画プログラムを連動させ、ホログラムのような表現で投影すれば、リアルタイムで会話する疑似人間ができあがる。ロボットテクノロジーが追いつけば形而下の世界に現れることになるのだろう。

 言葉でも映像でも騙されやすい私たちがこうした事態にどのように対処すべきだろうか。そのためにも問題発見力とメタ認知の力を身に着けさせるべきだろう。これこそが教育のやるべきことなのだ。

親指

 スマホが登場するまでは親指が記述に活用されるとは思わなかった。右利きの私がこのブログの大半を左の親指で書いている。

 日本人はスマホの入力を人差し指で行なう人が多いという。パントマイムでスマホの演技をするならば、大げさに人差し指をスワイプする動作になるだろう。

 それでも簡単な入力は親指で済ます人が多い。片手で操作するにはこの指しか使えないからだ。私も右手は電車の吊り革の取っ手を握っているので、左親指しか使えないという事情がある。

 思えばこれは人類の発達史上かなり特異な出来事であるのかもしれない。身体にどのような影響が及んでいるのか興味がある。

音声入力

 今回は音声入力を利用してブログを書いている。 音声入力の精度はかつてと比べるとかなり良くなっている。 ただ日本語には同音異義語が多いために、なかなかうまくいかないことも多い。

 音声入力をしている場面はかなりおかしい。スマホに向かって独り言を言っている。 かなりな変人だ。それでもこれからはそういう場面に多く出会うだろう。

 ここまでの入力で、同音異義語や句読点が出てくるたびに引っかかっている。でも、それ以外の入力は比較的うまくいっている。私のようなだみ声で滑舌が悪くても入力できている。結構これは使えるかもしれない。

 音声入力で必要とされる能力に文字が正しいかどうかを見定める漢字力、表記力がある。この意味において漢字のテストの役割はまだ終わっていない。音声入力は意味のつながりを考えておらず、単に可能性の高い変換をしているのに過ぎないのだ。

 もう文字を覚えなくてもいいとか文章は機械に任せるとかそういう考えは今のところ通用しない。今後、さらなる技術の飛躍があって、音声入力がほぼ完璧になされるようになったら、次は話したまま、文章として成り立つように文章が組み立てられる能力が必要になるのだろう。

 どこまで行っても国語能力が必要であり、そうである限り文字を書き文章の構成を考える学習は必要であり続けるはずだ。

携帯キーボード

 スマートフォンでほとんどの記事は書いているのだが、やはりキーボードがあると効率が全く違う。文字をたくさん入力するときはやはり物理的なキーボードが欲しい。私が小型パソコンを持ち歩くのはそのためでもある。ただいかんせん重い。軽量のPCもいくらでもあるがそういうものは値もはるものだ。私はその一つの解決策としてキーボードだけを携帯して、Bluetoothでスマートフォンに接続している。

 私が使っているのはLogicoolのK380というものでもともとはタブレットの入力用として用意したものだ。しかし、そのタブレットが骨董品となってキーボードの方は使わなくなっていた。それをスマートフォン用の入力機器として使ってみたら非常に便利であることが分かった。

 このキーボードは電池で駆動し、3つのBluetoothを受信できる。キーバードの配列も標準的であり、Windows,iOS、androidのどれにも対応できるようにキーが作られている。重さは423グラムであり、私が普段持ち歩いているポーチに入る。これがあればスマートフォンに入力するのが非常に楽になる。

 キーが丸いのは特徴的だが特に打ちにくいということはない。打鍵音がほとんどないので周囲が静かなところでも気にならないのもいい。キーボードだけを持ち歩いてあとはスマホというスタイルでもいいと感じている。4000円弱でスマホをPC化するという言い方は大げさだが私の使用レベルではこれで十分な仕事ができる。

環境の提供

 リモート学習の評判は概してよくない。効率、品質などあらゆる面でリアルの授業よりも劣るからである、この事実を踏まえて次の改革はなされなくてはならない。

 うまくいかない原因の一つは技術的な問題である。社員が話し合えばいいだけのリモート会議とは異なり、学校の授業は教員が伝達する場面が多い。また、1対多の局面では個人差を常に配慮しつつ進める必要があるが、現況ではそれが難しいのだ。

リモート学習は効果が上がらない?

 通信教育はリモート学習が始まる前から同じようなことをしてきた。通学困難な生徒にとっては通信教育はありがたい学習機会の場であり、勤労学生の支えでもある。そして、一定の効果をあげている。ただそれが学校の授業と置き換わったときには話が変わってくる。

 学習カリキュラムを人工知能が個人別に判断して、個個別別の授業をするというプログラムもある。こうなると現場に教員はいらず、自分にあった内容を自分のペースで進めることができる。理想的なようだが、実際に行っている人に聞くと、効果を発揮できる人とそうでない人に分かれるという。また、まったく教員がいない状況で運用すると効率が低下するらしい。

 つまり、技術的な問題が解決すればコンピュータを介した学習方法は効果的だが、単にハードとソフトを用意すれば事足りるという訳にはいかないのだ。

 学習という行為が多分に感情や情緒の影響を受けることを再確認しなくてはならない。リモート学習が嫌いだという生徒の意見には仲間がいないとやる気が起きないというものがある。至極もっともだ。仲間は仲良しとは限らずときにはライバルであるかもしれない。それも学習意欲の亢進には不可欠なのだ。

 すると学校の役割は学習意欲を掻き立てる環境を提供することになる。環境といってもものだけではない。雰囲気であったり行事であったりする。一人では決してできない集団の行動を用意することが学校の役割なのだろう。

 いわゆる一流校と呼ばれるものは、それが備わっている。授業は実は他校とそれほど変わらないか、場合によってはいい加減であったりする。それでも結果を出すのは学習行為を発動する要素があるからなのだろう。

 学校関係者はこのポイントを外せないし、受験生も偏差値ばかりに気を取られるべきではない。

学びの道具

 スマートフォンてゲームをしている大人が多いのは今に始まったことではない。ストレスフルの社会情勢の中で気晴らしや現実逃避の具として機能していることは確かなので否定するばかりではない。ただあまりにもそればかりだと心配になる。

 スマートフォンには学習型アプリもあるし、ニュースを読んだり、電子書籍リーダーにもなる。スマホで学習している大人が増えたなら、子どもたちにも変化があるかもしれない。

 だからゲームはやめましょうと言いたいのではない。いろいろな使い方ができ、場合によっては金の足しになったり、心を豊かにすることもあると考える人がもう少しいてもよいのではないかと思うまでだ。

知らなかった機能

 こんなこともできたのかと思う機能がスマホにはある。多機能過ぎて使いこなせていないということなのだ。最近色々と分かってきていちいち驚いている。

 例えば文書を写真で撮ってそれを補正してPDFファイルにするということは、iPhoneの純正アプリのメモに始めから付いていてアプリを付け足す必要がない。

 流れている音楽のタイトルやアーティストを知りたいときは、ミュージック検索機能がある。iPhoneでもAndroidにもある。メジャーな曲ならばほぼ間違えることはない。クラシック楽曲もほぼ言い当てていた。途中からでも検索可能なのがやはり機械ならではと思った。

 検索といえば画像検索は面白い。対象にカメラを向けて検索すると、それと似たものの商品がリストアップされ、ECへの誘導がある。価格表示もされる。この方の精度はいまひとつだ。というよりよく似ていても価格は多様であるというのが本当のところだろう。

 画像検索を人に向けると有名人なら名前を知ることができる。自分にカメラを向けたところ検索不能と出た。安い値段が表示されず一安心だ。

失敗の連続

 リモートワークを始めて思うことはこれまでできなかったことがいかに多いかに気づくことです。そしていまは失敗の連続です。

 おそらくここまできてICTやアプリケーションソフトの使い方を覚える日がくるとは思いませんでした。時間があっても機会がなければやらないもの。必要は発明の母であり、スキル獲得のチャンスでもあります。ただ、やっていくうえで失敗の連続です。ネットにつながった失敗ではそれが自分だけのものにとどまらないのが大問題といえます。

 恥をかきながらも今はスキルをあげる時と割り切ることにしようと考えています。