カテゴリー: エッセイ

画像生成

 AIによる画像精製については以前も書いたことがある。最近知ったことだがマイクロソフトのEdgeというブラウザには画像生成の拡張機能が盛り込まれており、簡単に使える。試してみたところ期待していたものとは程遠いものの、プログラミングや何らかのサインインなしに気軽に画像が作れることには単純に驚く。

 このブラウザには例の文章作成対話型アプリもあって、ブログ記事をある話題で書いてくれと入力すると、例のナンバリングとラベリングで整然と段落分けされた記事が出来上がってくる。コンピューターが作る記事だからコンピューターにと優しい文章が出来上がる訳で、検索されやすい文章ということになる。これに生成した画像を添付すれば、もう誰のブログか分からなくなる。恐らくすでにそういうものが溢れているはずだ。

 画像まで機械任せになったなら、私としては敢えて下手くそな文章と写真、あるいは手描きの絵で勝負するほかあるまい。いまは笑われても次第に希少価値が出るはずだ。

不調かな

 いろいろな理由で今日は何をやってもうまくいきそうもないと思うことがある。私は最近、それを感じることが多い。その原因を自分の中に探すのはどうも賢明ではないようだ。

 気持ちの揺れは生き物として当たり前であり、すべては寄せては返す波のごとしという。調子が悪いと感じるのは過去に良いことがあったときの印象を基準にしているだけのことであって、実はそれほど悪いわけでもない。

 天候とか周囲の環境とかも調子の良し悪しの判断に影響する。生き物である以上当然だ。また他人との比較で感じることもある。自分だけなぜできないと思うと不調と感じる。ただ、この自分だけというのは大抵過剰反応で自分ができないことは多くの人にとってもできないことだ。

 調子がいいというのも悪いというのもこのようなバイアスのもとに感じていることを冷静に思い直す必要がある。

また金曜日に

 天気予報によるとこれから天気は下り坂で関東では明朝未明から早朝にかけてかなり強く降る可能性があるという。先週もひどい目にあったが明日金曜日は注意しなくてはなるまい。

 梅雨前線に南方海上の台風という配置は前回と変わらないが、勢力や距離などの差から前回ほどの大雨にはならないと見込まれている。しかし、いわゆる線状降水帯が形成された場合は危険である。また、地盤自体が弛んでいる場合は雨量が少なくても土砂災害発生の可能性がある。

 ぜひ注意をしていただきたい。梅雨の中心はまだ先のはずだ。

教える勉強法

 学習したことを定着させるには言語化が欠かせない。私たちは受容した情報の大半を言葉に置き換えて覚えるからだ。記憶するためには言語化をいかにうまく行うかが影響する。

 言語化の方法はいろいろあるが、その一つに学んだことを誰かに教えるということがある。実際に教える相手がいない場合は架空の人物に向かって教えるのでもいいのだという。先生ごっこは実は最高の学習方法だったのだ。

 ノートに学んだことをまとめ直すのでもいいのだという。多くのノート術を説く本に、講義の後のまとめが大切だと書かれている。自分のことばにして文字として書き出すことで知識は定着する。

 言葉にするのは面倒だし時間もかかる。だが、この一手間こそ学習効果を上げる簡単かつ効率的な方法だったのだ。

No

今日は真夏日

 予報によると東京の最高気温は31℃の予報が出ている。いわゆる真夏日になるかもしれない。

 子どもの頃、真夏日というと非常事態のような気がしていた。記録によると過去30年間の真夏日の年間平均日数は2.5日だという。ところが昨年は14日もあった。真夏日といえば7月末か8月と思っていたら、去年は6月に36.2℃を記録している。そういえばと思うが、あまりに暑い日が続くとかえって記憶が曖昧になる。

 ここ十数年が気温が高い傾向にあることは間違いない。気候変動が人為的要因によるものなのかは知識がつくほど分からなくなるが一つの仮説がある限り対策はすべきなのだろう。

 科学的な証明はわからないがとにかく異常に暑い日が連続するという事実は事実だ。これに何とか対応しなくてはならない。私の人生は後半の後半にさしかかったが、後生の皆さんのために少しでも役立ちたいとは思っている。

台風3号発生

 南洋で台風3号が発生した。今のところは勢力も弱く本州への上陸の可能性は低そうだ。ただ前の台風のように梅雨前線のエネルギー供給源になる可能性は高い。するとかなり厄介な災害の素になる。

 昔、子供向けの怪獣図鑑のようなものがあって、その中に怪獣の平和利用という項目があった。そのなかでも印象的だったのが、冷気を発する怪獣を使って台風の進路を変えたり弱体化するというものがあった。実際にその役を行う怪獣は莫大なエネルギーを冷気発生に費やす必要がある。自然の脅威に対抗するためには怪獣一匹では役不足のような気がする。

 怪獣を雇えない私たちは被害をなるべく減らすべく立ち回るしかあるまい。恐らく毎年狼狽え、その度に対策法を考える。それがいまできることなのだろう。

短歌的想念、俳句的気分

 短歌や俳句が好きな私にとって、思いの表現の仕方が短歌的になるときと俳句的になるときとがある。これはある意味連続的なものなのでどちらともいえないときもあり、そういう時は作品はできない。たいていの場合はそのできないときの感情でいる。

 物事の感情を切り取ることができたとき、短歌は生まれる。いろいろなことが絡みついている日常の中の一つを取り出すことができれば歌は作りやすくなる。実際には物事は複雑に絡みついており、一つを取り出すことはできない。それを人為的、もしくは独善的に成し遂げたとき私の歌は完成する。

 俳句はもっと冷静にならなくてはできない。景をもって情を表すのだから、様々な思いを託す景を見つけなくてはならない。見つけた後はひたすら枝葉を落とす。ようやく形が残ったものが句になる。

 俳句も短歌も表現の方法としては似ているが、最後の仕上げはかように異なる。これらの文学を知り得たことは、私のあまり報われなかった学問生活の中では最大の成果だと思う。

矛盾を教える

 人間のできることの最高値は矛盾を教えることだと考える。理屈ではおかしくても経験上、文化的にこうでなくてはならないということはいくらでもある。それらを簡単に因襲のごとく囲い込もうとしてもうまくいかない。

 私たちのできる最大にして最良の方法は、この論理矛盾を受け入れる度量を持つことである。うまく説明はできないが確かにそうだ、ということはいくらでもある。その現実を踏まえるべきなのだ。

 効率を重視しすぎるシステムではこの論理矛盾が挟み込まれる余裕がない。だから最適解を提示しても実現不可能ということが多い。辻褄は合わないがこうすることがよいということは人間しかできない指導法だ。私はそういうことができるようになりたい。

戦争文学

 戦争文学を読むときその目的が私の中でかなり変化してきていることに気づく。それは自分と戦争との距離が離れ続けていることと関係している。

 かつて戦争文学は史実の記録の一つとして読んでいた。いかに悲惨なことが行われていたかを参戦した人の実録として読んだ。史料や映像では伝えられない出来事や心情を残すものとして扱った。

 それがいつの間にかそうした史実に対する関心よりも、限界状況における人間のあり方を語る文学として捉えるようになっている。両者は似て非なる捉え方だ。戦争を限界状況を提示する設定の一つとしてしか捉えていないことになる。

 経験していないことを語るのは難しい。身近に戦争体験者がいれば少しずつその経験を共有することもできるかもしれない。ただそれも難しくなりつつある。

 戦争が単なる歴史上の事項として受け取られる時代に、何ができるのだろうか。私自身の問題としては若い頃に読んだ驚きや恐怖を読み取ることに遠慮をしないことだと考えている。

ミニチュア

 子どもの頃、鉄道模型や帆船模型などに興味が惹かれた。大きなものを俯瞰することができることに素朴な喜びを覚えた。いまでも偶然それらに出会うと懐かしい誘惑にかられる。

 最近、電車の車窓から見える風景がミニチュアのように感じることがある。紛れもない現実の風景をそう感じるのはなぜなのか。

 一つの考えとして私の脳の状態という要因がある。現実をひとかたまりに分節して、それを単位に捉えるあまりに現実をありのままに受け入れられないようになっているのではないだろうか。

 これは加齢も関係があるかもしれない。過去の経験に頼り過ぎるとものを模型のように感じるのか。いろいろな他の可能性も考えつつ自分の認知行動の変化を説明しようとしている。