少し時間がすぎるとなぜこんなことにこだわっていたのか分からないと思う経験は何度もしている。細かいことにこだわっていた自分が不可解な存在の様に思えてならないこともある。なぜなのだろう。
私たちはものを考える際に身近な環境の影響を受けやすい。目につくものを基準にして物事を考えていく。だから、そのときにどのような環境に置かれているかが、判断基準に大きな影響を及ぼすことになる。
その環境と呼んだものは刻々と変わるもので、常に揺れ動いている。だから、それを基準にした価値判断もまた非常に不安定なものと言える。その時は正しいと思っても、実は見方を変えればまったく別物に映るということもしばしばある。最初に述べたことは、このように価値基準が変わった後に過去を見返したときに起こる。
このようなことを書きながらも、私は日常を超越することなどできず、その都度悩み、その都度苛つき、その都度落ち込んでいる。とても残念なことだが、この繰り返しからは抜け出せそうもない。ただ、少々馬齢を重ねたお陰で、わずかながらメタ認知ができるようになっている。
このところ不調が続いており、いろいろな行き詰まりを感じている。それも本当は錯覚かもしれないと考え直すことにしている。自分が考える調子などというものほど怪しい感覚はない。だめだと思うときも、絶好調と思うときもどこかで考え直す必要がある。